青賀原神社(河内長野市) ・弘法大師伝説のある旧下里村の鎮守

青賀原神社

2021年8月訪問
青賀原神社(あおがはらじんじゃ)は大阪府河内長野市下里町にある神社です。南北朝時代の南朝の最重要拠点の一つで女人高野とも呼ばれた天野山金剛寺の北に広がる長閑な田園風景と、比較的新しく広大な総合運動施設に囲まれた鎮守の杜に佇む神社です。高野山にゆかりのある神社で、明治時代の旧社格制度では村社に列していました。

青賀原神社(河内長野市)
青賀原神社(河内長野市)

青賀原神社が鎮座する下里町は河内長野市の北西部にありますが、かつては河内国錦部郡下里村と呼ばれていました。同村は河内国全体から見るとほぼその南西端に位置しており、当社の背後には国境があってその向こうは旧和泉国の領域となっていました。


歴史と概要

社伝によると、青賀原神社の創建は治承4年(1180年)で、現在の御祭神は丹生大明神、高野大明神、久爾津神、稲荷大明神となっています。

青賀原神社の社殿前には由緒記があり、そこには以下のように記されています。

青賀原神社の丹生大明神は桓武天皇の延暦三年九月十四日 紀州かつらぎ 天野の里からこの地に奉還安置されたもので この神は天照大神の弟神である月読之尊(月の神)と伝えられている

この丹生大明神は空海(弘法大師)と関係深く 空海が高野御開発まじかにあった頃 泉州槇尾寺に向かい下里谷の茅原を通行中のことである 急に黒雲が舞い下り 天地が鳴り響き 道端の澤より頭九つの大蛇が出現 火を放って空海に飛びかかった 空海は衣の袖で大蛇を振り払い 不思議な念仏を唱えると 黒雲の中から白と黒の犬を連れた狩人(身丈八尺)が現れ 矢の先が千筋に分かれる弓で大蛇を退治した 空海はこの狩人に『汝は何人ぞ』と聞けば 『我は一字金輪(仏頂尊)なり 空海宗祖の御命を助けるため丹生大明神に化身し出現した』という この狩人こそ後に空海を高野山に導いたとされる狩場明神(高野明神)である

丹生大明神は大蛇の死骸に大力をもって土をかけ墓を築くとその姿を消した 空海はこの墓を「九頭神山」とし『南無阿弥陀仏』と念佛を唱えたことからこの場所を南無阿弥陀仏(なはいだ)として今なおその地名を残し大蛇と共に語り継がれている(下里村丹生大明神・九頭神山由来記要約)

なお青賀原神社創建は平安後期の治承四年四月十六日と伝えられ 現在の本社殿は江戸初期(推定)に造営されたもので 祭神は丹生大明神、高野大明神、久爾津神、稲荷大明神と伝えられている
この由緒記から、青賀原神社の創建は治承4年ですが、そこに祀られている丹生大明神は延暦3年(784年)に紀伊国伊都郡の天野の里(現在の和歌山県伊都郡かつらぎ町の一部)から奉還安置(勧請ではない?)された神で、天照大御神の弟神である月読之尊(つくよみのみこと。月読命とも)と同一神と伝えられていることがわかります。

青賀原神社からほぼ真南に20km。紀州伊都郡の天野の里には式内社(名神大社)で紀伊国一宮とされる(旧社格制度では官幣大社、現在は神社本庁の別表神社)となっている丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)があります。丹生都比売神社では丹生都比売大神(丹生明神)、高野御子大神(狩場明神)、大食津比売大神、市杵島比売大神のいわゆる「四所明神」と呼ばれる4柱の神々を祀っていますが、青賀原神社でも同様に4柱の神を祀っています。

丹生都比売神社では丹生都比売大神、つまり丹生明神を天照大御神の妹神としている一方、青賀原神社の丹生明神は弟神となっていますが、これは古事記や日本書紀に登場する月読命には性別の記述が無いためと思われます。また、丹生都比売神社には青賀原神社で高野明神とされる狩場明神が祀られていますが、狩場明神は黒と白の犬を連れた狩人に化身して弘法大師の前に現れ、高野山へと導いたと伝えられています。なお、高野山周辺では丹生都比売神社以外にも丹生都比売大神と高野御子大神を祀る神社が数多くあります(丹生酒殿神社や丹生官省符神社など)。

また、丹生都比売神社の鎮座地周辺は天野と呼ばれていますが、青賀原神社のある下里町も隣接する天野町などと共に天野地区と呼ばれています。さらに、青賀原神社の2mほど南にある天野山金剛寺は女人高野とも呼ばれる真言宗御室派の大本山で、その鎮守には丹生高野明神社などが祀られていることも興味深いです。

なお、九つの頭を持つ大蛇を葬ったとされる九頭神山は青賀原神社から200m少々南にあり、今も祠があるようです。

青賀原神社(河内長野市)
由緒記

現在の河内長野市下里町、天野町、小山田町の一部は天野谷と呼ばれていましたが、青賀原神社が創建されたとされる治承4年、地元の武士である源貞弘が金剛寺に天野谷一帯の土地を寄進し金剛寺領となったようです。

江戸時代の初め頃、現在も残る青賀原神社の本社殿が建立されたとされます。慶安4年(1651年)、下里村は膳所藩(現滋賀県大津市)の藩主に再任された本多下総守俊次の領地となりました。

明治に入ると旧社格制度で村社に列格しますが、明治40年(1907年)12月26日に当時の南河内郡天野村大字天野山字高瀬の村社高瀬神社と共に、天野村大字小山田字尾上山にある郷社清崎神社(現在の住吉神社)に合祀されました。なお、大阪府全志では「青ヶ原神社」表記で字も「青ヶ原」となっている他、御祭神も国津神、高龗神(たかおかみのかみ。詳しくは大祁於賀美神社の記事参照)、保食神となっています。

しかし、旧社地には社殿が残され、合祀後も旧下里村住民によって祭祀が続けられたようで、現在の境内には昭和や平成に奉納された灯篭などもありました。


青賀原神社の鎮座地周辺はかつて河内国錦部郡下里村と呼ばれていましたが、明治22年(1889年)の町村制の施行により、小山田村、下里村、天野山区域をもって天野村が発足します。明治29年(1896年)に所属郡が南河内郡に変更。当時の当社鎮座地は南河内郡天野村大字下里字青ヶ原となっています。昭和15年(1940年)、天野村は長野町、千代田村と合併し、改めて長野町が発足。昭和29年(1954年)に長野町が三日市村、高向村、天見村、加賀田村、川上村と合併し、河内長野市が発足しました。

旧下里村には廣野、中尾、岡畑という字地が含まれていたようです。また、昭和54年(1979年)12月1日に誕生した緑ケ丘北町、緑ケ丘中町、緑ケ丘南町も天野地区に含まれるようです。


青賀原神社は神職不在神社です。大阪府神社庁のホームページによると神社本庁非加盟神社(単立)となっています。


境内

青賀原神社は、天野谷を流れる天野川(正式名称:西除川)の左岸に形成された下里集落の北東側に鎮座しています。

ちなみに、天野川は狭山池に流入しています。また、天野谷には河内と和泉の国境であった陶器山丘陵の尾根に沿って南下し、天野山金剛寺への参詣道として利用された天野街道が通っています。現在、天野街道の大阪狭山市今熊から大野西までの区間は遊歩道「あまの街道」として整備されており、緑と田園風景を楽しむことが出来ます。

青賀原神社(河内長野市)
南側参道入口付近

下里総合運動場東側の道路沿いに青賀原神社の南側参道入口があります。こちらの入口には普段車止めがあって、徒歩でしか参拝出来ないようです。

青賀原神社(河内長野市)
「青賀原神社」

参道入口右手には、瓦屋根付きの「青賀原神社」と書かれた看板があります。

青賀原神社(河内長野市)
参道の坂道

20mほど坂道を上ると平坦な土地が広がっており、そこに建つ社務所や社殿などが見えて来ます。

青賀原神社(河内長野市)
社伝(左)と社務所(右)

青賀原神社の社殿は南東を向いていて、手前の社務所と奥の鳥居の間は、幅約30m、奥行約15mの広場になっています。周囲を森に囲まれているので境内全体の広さは不明です。

青賀原神社(河内長野市)
青賀原神社の幟

視線を左手に向けると、境内の南西側に青賀原神社と書かれた赤や青の幟が多数立てられています。

青賀原神社(河内長野市)
南西に延びる道(参道)

さらに社殿の方に進んで左側(南西)を見ると、手水舎とその先に延びる道路が見えます。

青賀原神社(河内長野市)
石灯篭が並ぶ参道

社殿方向に向かわず、一旦南西に延びる道を数十m進んで振り返ってみると、右側に多数の石灯篭が並んでいることがわかります。

旧下里村の集落は当社の南西にあることから、この道が集落から北東にある神社へ至る本来の表参道のようです。

青賀原神社(河内長野市)
社号標

改めて灯篭の並ぶ参道を進むと、境内入口右側に「青賀原神社」と彫られた社号標が現れます。

青賀原神社(河内長野市)
手水舎

社号標の裏、参道右手には手水舎や百度石、井戸があります。手水鉢は歴史がありそうですが水は飲めません。百度石は少し独特の印象を受けるもので、井戸は塞がれていました。

青賀原神社(河内長野市)
社務所

無人の神社なので、祭礼時などを除いて社務所に人はいないようです。社務所裏側(南東側)にトイレがあります。

青賀原神社(河内長野市)
境内の遊具

手水舎付近から社殿に向かう左手(境内東側)にはブランコや滑り台があることから、境内が地域の公園にもなっているようです。としても

青賀原神社(河内長野市)
社殿の周囲

青賀原神社の社殿は周りを塀で囲われています。

青賀原神社(河内長野市)
社務所前から社殿を望む

前述のように、本殿は南東向きで、鳥居、石畳の参道が真っすぐ正面に建つ社務所の方に向かって延びています。

青賀原神社(河内長野市)
古い灯籠と拝所

社務所側から石畳の参道を進むと一対の狛犬があり、その先の石造りの鳥居をくぐると二対の石灯篭があります。境内には昭和に建てられた灯篭が多いようですが、こちらの二対のものは歴史がありそうでした。

青賀原神社(河内長野市)
本殿

参道の突き当りには神門(拝所)があり、ここで参拝します。

青賀原神社の本殿は江戸時代初期に造営されたとみられる美しいもので、周囲も含めとても綺麗に手入れされています。

青賀原神社(河内長野市)
境内社

本殿に向かって左手には一間社流造の社殿がありますが、こちらの御祭神は不明です(八幡神?)。

青賀原神社(河内長野市)
本殿前から社務所を望む

河内国最南端近くにある下里地区を見守る青賀原神社は、高野山に関係の深い神々を祀る弘法大師ゆかりの神社として明治の合祀後も残され、今も大切にされているようでした。


アクセス

国道170号(外環状線)の天野山第1トンネルと第2トンネルの間から金剛寺方面に向かい、「天野山金剛寺前」交差点を右折します。国道170号(旧道)を北に400mほど進むと右にカーブした後に金剛寺駐車場や下里総合運動場・下里運動公園人工芝球技場(現在はコノミヤ・スペランツァ球技場(スペランツァ河内長野フィールド))方面の看板があるのでその交差点を左に入ります。すぐに左手に金剛寺駐車場の入口がありますが入らずに直進し、そのまま2車線道路を道なりに約2km進むと正面に下里総合運動場が見えて来ます。道路は運動場の手前で左にカーブしており、そこから約100m先に青賀原神社南側の入口があります(古い府道217号大野天野線で向かう場合は、運動場手前(南)の高橋を渡ってください)。

こちらの運動場向かい側の入口から神社に上る参道は通常車は入れないようです。神社入口付近の道路脇に駐車出来そうなスペースがありますが、参拝者用駐車場として利用可能かは不明です。


南海バスの「下里口」バス停で下車し、70mほど北東の「市立天野公民館」の標識のある交差点から北に進みます。「あまのこどもえん」を右手に見ながら道なりに1kmほど進み突き当りを右折。約50m先の下里橋を渡ってすぐ左折し、高橋を渡ると右手に下里総合運動場が見えるので右折し運動場方面に向かいます。あとは運動場のフェンスに沿って100mほど進むと道路左手に神社の入口があります。

Aogahara Shrine(Kawachinagano CIty,Osaka Prefecture)


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