丹生都比賣神社
2020年10月訪問
丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)は和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野にある神社です。平安時代にまとめられた「延喜式神名帳」に紀伊国伊都郡2座のうちの一つとしてその名が記載された、いわゆる式内社(名神大社)で、紀伊国一宮とされています。明治時代以降の旧社格制度では官幣大社に列し、現在は神社本庁の別表神社となっています。
丹生都比売神社(伊都郡かつらぎ町) |
丹生都比売神社は、全国に約180社あるとされる丹生都比売神を祀る神社の総本社であり、「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産の一つとして世界文化遺産に登録された重要な神社というだけだはなく、空海(弘法大師)が高野山を開くにあたって「弘法大師に高野山を授けた神の社」という興味深い伝説が残る神社でもあります。
歴史と概要
丹生都比売神社の正確な創建年は不祥ですが、社伝によると今から約1700年前に遡るとされます。旧字体表記では「丹生都比賣神社」、旧仮名遣で「にふつひめじんじゃ」。
御祭神は第一から第四の社殿にそれぞれ丹生都比売大神(にうつひめのおおかみ)、高野御子大神(たかのみこのおおかみ)、大食都比売大神(おおげつひめのおおかみ)、市杵島比売大神(いちきしまひめのおおかみ)が祀られている他、行勝上人(ぎょうしょうしょうにん)を祀る若宮、境内社の佐波神社(さわじんじゃ)があります。
ホームページの御由緒などによると、鎮座地は紀ノ川より3kmほど南の紀伊山地に入った標高450mの盆地、天野地区となっています。「播磨国風土記」には丹生都比売神と同一視される「爾保都比売命(にほつひめのみこと)」が登場します。神功皇后の三韓征伐の際、爾保都比売命が国造の石坂比売命に憑いて神託し、衣服や武具、船を朱色に塗ったところ戦勝することが出来たため、神功皇后の子である第15代応神天皇が社殿と広大な土地を神領として寄進したとされています。一説では神を祀ったという「管川の藤代の峯」は現在の伊都郡高野町上筒香(かみつつが)の東の峰とされ、丹生川の水源地にあたるこの地が丹生都比売神社の旧社地とも見られているそうです。
御祭神や社名の「丹(に)」は朱砂(辰砂)の鉱石から採取される朱を意味しています。「魏志倭人伝」には既に邪馬台国の時代に丹を産出する山があったことが記載され、古墳の内壁や石棺、壁画などにも使用されていました。全国の丹の鉱脈のあるところに「丹生」の地名と神社があり、丹生都比売大神は日本各地の朱砂を支配する一族の祀る女神とされています。
当社周辺には丹生酒殿神社や丹生官省符神社をはじめ、多数の丹生神社がありますが、全国には88社の丹生神社があり、丹生都比売大神を祀る神社は108社、摂末社を入れると180社余を数え、当社はその総本社となっています。
神功皇后が三韓征伐から凱旋された頃に創建されたとする神社は多く、大阪府で有名な神社としては住吉大社や開口神社、坐摩神社(いかすりじんじゃ)が、兵庫県では廣田神社などが知られています(梶ケ島住吉神社も関連あり)。また、南河内では河内長野市小山田の住吉神社があります。
御祭神は前述の4柱ですが、これら4神は「四所明神」とも総称されています。丹生都比売神社では、御祭神について以下のように記されています。
第一殿に祀られる丹生都比売大神については、天平時代に書かれた祝詞である「丹生大明神告門(にうだいみょうじんのりと)」によると、伊勢神宮に祀られる天照大御神の妹神で、稚日女尊(わかひるめのみこと)とも呼ばれています。神代に紀ノ川流域の三谷に降臨し、御子に当る高野御子大神と共に紀伊・大和地方を巡り人々のために農耕殖産(衣食や織物の道)を教え導き、最後に天野の地に鎮まったとされます。諸々の災いを祓い退け、一切のものを守り育てる女神で不老長寿、農業・養蚕・織物の守り神。
第二殿に祀られる高野御子大神は、丹生都比売大神の御子神で、弘法大師の前に狩人の姿で現れ、そのお使いである黒と白の犬が高野山に導いたことから「狩場明神」として知られています。人生の幸福への導きの神。
第三殿に祀られる大食都比売大神は、あらゆる食物に関する守り神。
第四殿に祀られている市杵島比売大神は、財運と芸能の神であり、七福神の弁天様としても知られています。
案内板 |
平安時代の延長5年(927年)にまとめられた「延喜式神名帳」に紀伊国伊都郡2座のうちの一つとして記載され、月次、新嘗の幣帛に預る名神大社に列していました。
弘法大師が高野山金剛峯寺を開くにあたり、地主神である丹生都比売神社から神領を譲られた、とされています(後述)。
鎌倉時代には、行勝上人により越前国一宮である氣比神宮(福井県敦賀市曙町)から大食都比売大神、安芸国一宮厳島神社(広島県廿日市市宮島町)から市杵島比売大神が勧請され、さらに北条政子が社殿を寄進したことにより本殿が四殿となりました。この頃から舞楽法会が明治時代の初めまで盛んに行われたそうです。
元寇の際、幕府が丹生都比売神社に異国降伏を祈願したところ、「大ガラスが飛び立ち暴風が起こって元の軍船を壊滅させた」と御神威を表したとして一躍有名となり、公家や武家から多くの寄進を受けました。この頃から紀伊国一宮となったようです(弘安8年(1285年)が初見)。なお、紀伊国では和歌山市秋月の日前神宮・国懸神宮や和歌山市伊太祈曽の伊太祁曽神社も一宮とされ並立した状態となっています。
中世にも多くの社領が寄進されましたが、それらは天正検地において没収されたそうです。
明治6年(1873年)に近代社格制度において県社に列格し、大正13年(1924年)に官幣大社に昇格しました。現在は神社本庁の別表神社となっています。
現在、伊都郡かつらぎ町三谷に鎮座する丹生酒殿神社は昭和10年(1935年)に摂社として丹生都比売神社に合併されましたが、第二次大戦後に独立しています。
平成16年(2004年)7月に「紀伊山地の霊場と参詣道」として、高野山、熊野、吉野地域とともにユネスコの世界遺産に登録されました。
明治時代の神仏分離に伴い丹生都比売神社は高野山から独立しましたが、今日に至るまで多くの僧侶が丹生都比売神社に参拝しており、神前での読経も行われるなど、今も深い関係があります。
高野山との関わり
丹生都比売神社は弘法大師空海に高野山を授けた神とされており、以下のような言い伝えがホームページなどで紹介されています。
平安時代の初期、密教の根本道場の地を求めていた弘法大師の前に、丹生都比売大神の御子神とされる高野御子大神が黒と白の犬を連れた狩人に化身して現れ、高野山へと導きました。弘法大師は丹生都比売大神より御神領である高野山を借受け真言密教の総本山高野山を開きましたが、丹生都比売大神と高野御子大神は「丹生両所」や「丹生高野神」と呼ばれ、高野山の鎮守、守護神として山上大伽藍に御社を建てて祀られました。ちなみに、現在丹生都比売神社には白い「すずひめ」号と黒い「大輝」号の2頭の御神犬がいます。
これ以降、古くから日本人の心にある、祖先を大切にし自然の恵みに感謝する神道の精神が仏教に取り入れられ、神仏習合や神仏混淆と呼ばれる神と仏が共存する日本人の宗教観が形成されて行きます。
丹生都比売神社の周囲にも数多くの堂塔が建てられ、明治時代の神仏分離まで当社は56人の神主と僧侶で守られてきたそうです(ホームページには3DCG再現映像があります)。
丹生官省符神社の町石(2016年3月) |
高野山との関係が深い丹生都比売神社ですが、その境内背後(800mほど南東)の尾根上には高野山への表参道である高野山町石道(ちょういしみち)が通っています。
国の史跡、世界遺産でもある町石道とは、慈尊院(伊都郡九度山町)、丹生官省符神社(同)から高野山(伊都郡高野町)へ通じる高野山の表参道です。弘法大師が切り開いたとされる町石道ですが、その由来は、道標として1町(約109m)毎に「町石」と呼ばれる高さ3mほどの五輪卒塔婆形の石柱が建てられた事によります。
この町石は、高野山上の壇上伽藍・根本大塔を起点として慈尊院までの約22kmの道中に180基、大塔から高野山奥の院・弘法大師御廟まで約4kmの道中に36基の、合計216基が置かれています。また、慈尊院から数えて36町(1里)毎には、町石の近くに「里石(りいし)」が合計4基置かれています。
町石道の中間、丹生都比売神社への枝道(八丁坂)には2基の鳥居が並ぶ「二つ鳥居」がありますが、これは神社境内の入口であり、高野山参拝者はまず当社に参拝した後に高野山に登ることが慣習となっていました。ちなみに、高野山金剛峰寺は丹生都比売神社の南東約8km(直線距離)にあります。
なお、高野山町石道は国の史跡「高野参詣道」として指定されているだけでなく、ユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の「高野参詣道」の構成資産の一部として登録されています。
文化財
国宝の「銀銅蛭巻太刀拵(ぎんどうひるまきたちこしらえ)」をはじめ、4棟の本殿、楼門、木造鍍金装神輿、兵庫鎖太刀、鍍金長覆輪太刀、鍍金長覆輪太刀、金銅琵琶、狛犬(4対)、法華経(8巻)が国指定の重要文化財となっている他、丹生都比売神社境内が国の史跡に指定されています。
また、和歌山県指定文化財(無形文化財、有形文化財)、かつらぎ町指定文化財(有形文化財)も多数あります。
重要文化財「丹生都比売神社本殿」、重要文化財「丹生都比売神社楼門」、史跡「丹生都比売神社境内」はユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の資産「丹生都比売神社」の構成資産となっています。
祭礼
1月に歳旦祭(1日)、元始祭(3日)、厄除祭(第3日曜)、御田祭(第3日曜)、2月に祈年祭(17日)、4月に花盛祭(第3日曜)、6月に大祓式(30日)、7月に神還祭(18日)、10月に例祭(16日)、11月に新嘗祭(23日)、12月に大祓式(31日)が、そして毎月16日に月次祭が執り行われます。
このうち1月の御田祭は、平安時代に始まり、形態の変遷を経て室町時代の祭祀の様子を伝えるという農耕神事で、豊穣を祈って舞が奉納された後、数々の芸能が披露されるという祭で、和歌山県の無形民俗文化財に指定されています。
●丹生都比売神社 公式ホームページ →https://niutsuhime.or.jp/
●丹生都比売神社 公式Facebook →https://www.facebook.com/niutsuhime/
境内
丹生都比売神社は、随筆家白洲正子が神々住まう高天原に例えたという、穏やかな田園風景が広がる天野盆地の東部に鎮座しています。田畑が広がる平地から南東の森に向かって参道が延びており、本殿や楼門、鳥居などは北西を向いています。
今回は神社北側にある第1駐車場から参拝しました。西側にある第2駐車場の方が本殿に近いですが、第1駐車場からの参道が鳥居や太鼓橋のある正面、表参道となっています。
第1駐車場から見た外鳥居 |
第1駐車場から南東の神社へ向かうと、まず小川に架かる小さな橋を渡ります。
外鳥居・社号標・案内板 |
小さな橋を渡り少し石段を上ると外鳥居(一の鳥居)と社号標、案内板があります。朱色に塗られたこちらの鳥居は、神仏習合が盛んだった神社によく見られる両部鳥居です。両部とは密教の金剛界・胎蔵界のことで当社と高野山との縁の深さの一端が窺われます。
北側から見た輪橋 |
外鳥居をくぐると少し先に朱色の太鼓橋である「輪橋(りんきょう)」が見えて来ます。通常は神様が渡られる神橋ですが、当社の輪橋は神様のおかげをいただくために参拝者も渡ることが出来るようになっているそうです。
輪橋から見た中鳥居 |
輪橋は慶長年間(1596年~1615年)に淀殿の寄進で建立されたそうで、この橋の架かる池は水面に輪橋の姿を映す美しい池で、鏡池と呼ばれています。
あずま舎 |
輪橋の東側(本殿に向かって左)には池の中の島にあずま舎が見えます。
善女竜王と第2駐車場 |
一方、輪橋の西側(本殿に向かって右)には小さなお社の建つ四角い小嶋があります。こちらには弘法大師の逸話にも登場する善女竜王が祀られているそうです。
輪橋から見た中鳥居 |
輪橋を渡ると再び橋と鳥居が見えて来ます。
東側の参道から見た輪橋 |
なお、輪橋の東側は平坦な参道となっています。
禊橋と中鳥居 |
輪橋を越えると再び川(禊川)があり、そこに架かる禊橋を渡ると中鳥居があります。中鳥居は外鳥居同様に朱色に塗られた両部鳥居となっています。
百度石 |
禊橋の手前右手に百度石があります。
本殿側から鳥居を望む |
禊橋を渡り、中鳥居をくぐって輪橋の方を振り返ると参道の様子がよくわかります。
社務所付近から楼門を望む |
中鳥居をくぐると目の前に現れる楼門に目を奪われますが、周辺には手水舎や社務所などもあります。
手水舎 |
中鳥居から楼門まで参道が続いていますが、その右手に手水舎があります。
社務所・授与所 |
手水舎の奥には社務所や授与所があります。
授与所 |
授与所では神札や御守りなどの頒布の他、祈祷・正式参拝・御朱印の申し込みなどを受け付けています。
社務所・授与所の北側、鏡池の南側には大きく平らな石が置かれています。
楼門 |
中鳥居から楼門までの石畳の参道には3対の石灯篭が立っています。
国の重要文化財の指定を受けている大変立派なこちらの楼門は、室町時代の明応8年(1499年)に造営に建立されたもので、入母屋造檜皮葺きとなっています。楼門の右側の建物が拝殿で、左側の建物が神饌所です。
御祭神の説明と花の浮かぶ手水鉢 |
楼門への石段の左側には御祭神の説明があります。参道の左右にある丸い手水鉢?には綺麗な花が浮かべられていました。
楼門から見える本殿への石段 |
楼門には拝所があり、幣殿の先には石段が見え、その先の高くなった場所に4つの本殿が並んでいます。一般の参拝はこの楼門前からとなりますが、時期により本殿の間近で参拝できる機会もあります(有料)。
4つの本殿と若宮 |
楼門から左(東)に進み神饌所を過ぎた辺りから本殿が見えます。
4つの本殿は右端の第1殿から左端の第4殿までいずれも同形式で同規模の一間社春日造の檜皮葺となっており、第1殿に丹生都比売大神、第2殿に高野御子大神、第3殿に大食都比売大神、第4殿に市杵島比売大神が祀られています。
本殿は室町時代に火災により消失しましたが、室町時代に復興されました。これらは朱塗りに彫刻と彩色を施した壮麗なもので、一間社春日造では日本一の規模を誇り、楼門とともに重要文化財に指定されています。なお、第一殿は江戸時代の正徳5年(1715年)、第二殿は室町時代の文明年間(1469年~1487年)、第三殿は明治34年(1901年)、第四殿は室町時代の文明元年(1469年)の造営となっています。平成26年(2014年)の「平成のご造営」の修復工事で塗装を江戸初期の配色に戻したそうです。
第4殿の左側には若宮がありますが、こちらでは平安時代末期から鎌倉時代初期の真言宗の僧、行勝上人が祀られています。行勝上人が鎌倉時代に大食都比売大神と市杵島比売大神を勧請したことから、本殿は現在の4殿となりました。
佐波神社 |
本殿を見ることが出来る場所のそば、神饌所の少し東に佐波神社があります。
佐波神社 |
明治時代に上天野地区の諸社を合祀した社です。
佐波社から中鳥居方面を望む |
佐波神社前からは楼門前の境内の様子が見渡せます。
その他、佐波神社から直線距離で50mほど東には山岳信仰と神仏習合時代の様子が垣間見える石碑群があります。こちら石碑群のうち、連なる石塔が大峯修験者の碑で、梵字を刻んだ碑が光明真言板碑です。こちらへは、手水舎前から東に進み、藤棚を抜けて川を渡り右折。御影堂・多宝塔跡地を越えた先にあります。
1700年以上前より鎮まる丹生都比売神社は、弘法大師に高野山を授けた神として、またすべての災厄を祓う神として広く崇敬されており、県外からの参拝者も多い神社となっています。
アクセス
公共交通機関では、JR西日本和歌山線「笠田」駅からかつらぎ町コミュニティバスに乗車し天野コースの「丹生都比売神社前」バス停下車すぐです(所要時間は約30分・運賃150円)。
第1駐車場(トイレ有) |
大阪や和歌山方面から車で向かう場合にわかりやすいコースは、まず京奈和自動車道「紀北かつらぎ西」ICから県道125号那賀かつらぎ線を南に進み国道24号に出ます。「笠田小南(かせだしょうみなみ)」交差点から約800m東の「笠田駅前」交差点を西に入り、国道480号を道なりに進み、約5km先の交差点(丹生都比売神社や紀伊高原ゴルフクラブの看板有)を左折します。そこから県道4号高野口野上線を道なりに5kmほど進むと神社に着きます。駐車場、一般参拝は無料です。
その他、丹生都比売神社ホームページには様々なアクセス方法が記載されています。
●丹生都比売神社公式ホームページ アクセス →https://niutsuhime.or.jp/access/
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