土佐稲荷神社
2015年9月訪問
土佐稲荷神社(とさいなりじんじゃ)は大阪市西区北堀江にある神社です。大阪市内の大動脈である御堂筋の心斎橋から長堀通りを西へ約1.5km。北堀江と呼ばれる地域の大通りから少し中に入った、周りを学校や図書館、マンションなどに囲まれた大都会にありながら静かな地域に鎮座しています。土佐稲荷神社(大阪市西区) |
江戸時代から桜の名所として知られていた当社ですが、明治時代の旧社格制度では郷社に列し、現在は土佐藩とゆかりのある神社として、また三菱発祥の地としても有名です。
歴史と概要
稲荷社ということで、主祭神は宇賀御魂大神(ウカノミタマノオオカミ)ですが、他に素戔嗚大神(スサノオノオオカミ)、大市姫大神(オオイチヒメオオカミ)、田中大神(タナカノオオカミ)の三柱も祀られています。
土佐稲荷神社の詳しい創建年代や由緒は不明ですが、神社の略記によると、安土桃山時代の天正年間(1573年~1593年)に豊臣秀吉によって進められた大坂城築城の際に運び込まれた石に只ならぬ畏きものがあり、これを祀ったのが始まりとされています。
江戸時代に入り6代目土佐藩主の山内豊隆が、享保2年(1717年)に京都の伏見稲荷から稲荷大神を勧請し社殿を造営して合祀した後に土佐稲荷神社とし、土佐藩蔵屋敷の鎮守としました。以来、山内家は参勤交代で大坂を通る際には必ず当社に参拝しただけでなく、一般の参拝も許しました。
その後、幕末になり攘夷論が激しくなると、慶応4年(1868年)に堺で土佐藩士がフランス帝国水兵を殺害するいわゆる堺事件が起こります。これは堺に上陸したフランス水兵の町中での狼藉を警備に当たっていた土佐藩士が追い返そうとしたことに端を発した衝突でしたが、結果はフランス側に11名の死者が出たことで明治政府最初の外交問題となりました。
ちょうどこの頃、堺事件に先立って発生した神戸事件のこともあり、フランスをはじめ、イギリスなど西欧諸国の軍艦が大阪湾に集まっていました。一方、明治政府は自軍の主力が戊辰戦争のため東国に下向していたため、ここで先端を開けば勝ち目はないと判断しました。
このような状況から、明治政府はフランスからの下手人の処刑、陳謝、賠償などの条件を受け入れ、関わった隊士29名の内20名を処罰することとし、指揮官4名を除く16名を決めるくじ引きがこの土佐稲荷神社で行われました。実際には11人が切腹した段階で立ち会ったフランス側から(あまりの惨状のため)中止を要請され、残りの者は助命されました。
明治元年、当社は土佐藩蔵屋敷とともに土佐出身の岩崎弥太郎(彌太郎)に譲り渡されました。弥太郎は当地で事業を興したことから「三菱」発祥の地とされています(後述)。弥太郎は土佐稲荷の東隣りに屋敷を構え、社殿を造替。後に旧社格制度で郷社に列格しました。
昭和20年(1945年)3月の大阪大空襲で土佐稲荷神社の社殿はほぼ焼失しましたが、その痕跡は灯篭などの焦げ跡に見ることが出来ます。平成5年(1993年)に三菱各社の浄財により念願の新社殿が完成しました。
神社周辺に残る土佐藩の面影
江戸時代の大坂には全国各地の諸藩の藩邸・蔵屋敷が置かれ、そのほとんどは中之島周辺にありましたが、土佐藩の藩邸と蔵屋敷は現在は埋め立てられている長堀川のほとりにありました。
土佐藩邸・蔵屋敷のあった場所、つまり当社の北東には「鰹座橋」、「白髪橋」という地名が今も残っていますが、鰹座橋は土佐の鰹節を扱う商人が集まった場所、白髪橋は土佐の白髪山の木材を下ろした場所といわれています。
ちなみに、ここから1km少々北に前述の中之島があり、その南側を流れる川を土佐堀川、南岸には土佐堀という地名や土佐堀通りという道の名前にもなっていますが、こちらは豊臣時代にこの辺りに土佐商人が多く住んだ土佐座があったから、とも言われています。
三菱発祥の地
幕末、土佐藩は直営の土佐商会を長崎に設立し、その支社を大坂に置きました。明治2年(1869年)に岩崎弥太郎は大坂商会(土佐藩開成館大坂出張所)に赴任し、翌年には土佐藩の少参事、藩邸の責任者になりましたが、当時の藩邸や蔵屋敷は商人からの借金の担保となっていました。
翌年には、明治政府の藩営事業禁止令に先立ち、私会社である九十九商会が創設されると弥太郎はこれを監督することとなりました。
弥太郎は藩から借金と事業、藩邸、蔵屋敷を受け継ぎ借金を返済して行きます。その後、三川商会、三菱商会と社名を変え、本社を東京に移しました。後に藩邸や蔵屋敷の敷地は大阪市に譲渡されますが、弥太郎は土佐稲荷神社を手放さず、三菱の守護神としました。
境内
土佐稲荷神社の鎮座地は大阪市立中央図書館の西側、長堀通から50mほど南で、境内の南側は土佐公園になっています。
鳥居と参道 |
敷地は東西約70m、南北約105m(社号標前の参道まで)のほぼ長方形で、南向きの社殿から真っすぐ伸びた石畳の参道が鳥居の方に続いています。鳥居は一の鳥居、二の鳥居とも石造りのもの。
参道は土佐公園の中ほどにある社号標前から北に向かって延び、60mほどで拝殿前に至りますが、
手水舎は拝殿前右手(東側)にあり、反対の左手(西側)には社務所・授与所があります。
土佐稲荷神社拝殿 |
土佐稲荷神社の本殿と拝殿は第二次世界大戦の空襲で焼失し、現在の社殿は平成5年に再建された新社殿となっています。
若宮社(左)と玉根社(右)。中央奥に遥拝所。 |
境内には六つの末社があります。石宮神社は海上交通の安全を守る神として、若宮神社は諸芸の上達や合格祈願、縁結びに参詣する人が多くいます。その他に、源八社、大黒社、玉根社、磐居社があります。
石碑 |
境内には石造物や石碑などが点在しています。
こちらは大阪商船初代「摂津丸」建造者の「兵安」こと兵庫谷源次郎氏が風害の際にこの石に身を寄せて命が救われたことを感謝して明治32年に建立した石碑。
また、土佐藩(山内家)や三菱(岩崎家)に関連する史跡や寄進されたものも多く見られ、社殿の神紋の三菱(スリーダイヤ)や玉垣などから三菱関連の名前を見つけることも出来ます。
●土佐稲荷神社公式ホームページ(リンク切れ) →http://www.tosainari.jp/
アクセス
公共交通機関では、大阪市高速電気軌道(Osaka
Metro=旧大阪市営地下鉄)の千日前線、長堀鶴見緑地線の「西長堀」駅下車。7Aまたは7Bの出口から片側4車線の大きな新なにわ筋に出て左(北)に進みます。すぐに左に入る道があるのでそこを入り大阪市立中央図書館の裏に向かうと正面に土佐公園が見えます。神社正面の参道、鳥居は公園の中から進みます。
車で参拝する場合に分かりやすいのは、新なにわ筋で西長堀駅の少し南にある「中央図書館前」交差点を目指し、交差点を北(中之島)方面からは右折、南(芦原橋)方面からは左折します。更に一つ目の信号を右折して100mほど進むと左に前出の土佐公園が見えてきますが、参拝者用の駐車場は無いようなので、向かいの中央図書館周辺のコインパーキングを利用することになります。
コメント
コメントを投稿