鍋宮大明神碑
2017年7月訪問
鍋宮大明神碑(なべみやだいみょうじんひ)は、堺市美原区大保(だいほ)にかつてあった神社の跡地に立てられた顕彰碑です。鍋宮大明神は烏丸大明神(からすまるだいみょうじん)とも呼ばれ、古来この地域を中心に栄えた金属鋳造(溶かした金属を型に流し込んで物を造る事)の技術者およびその集団である河内鋳物師(かわちいもじ)と深いつながりのある神社でした。鍋宮大明神跡(堺市美原区) |
現在、顕彰碑は大阪市内と南河内を結ぶ幹線道路である国道309号沿いにひっそりとたたずんでいますが、神社はすぐ近くにある広国(廣國)神社に合祀されています。
歴史と概要
鍋宮大明神の創建年は不明ですが、河内鋳物師が自分達の始祖と仰ぐ「石凝姥命(いしこりどめのみこと)」を始め、「天児屋根命」「猿田彦命」、また、始めて鋳物を作ったと言う「鍋子丸」を祀ったものといわれています。
説明板 |
日本御鋳物師発祥地碑 |
鍋宮大明神は明治元年(1868年)に廃社となって200mほど北にある広国神社に合祀されています。現在その跡地には鍋宮大明神の石碑、歌碑、大保千軒之碑、日本御鋳物師発祥地碑、そして色あせた説明板などがあります。
また、徒歩圏内には広国神社の他、丹比神社や黒姫山古墳、更に河内鋳物師についての展示もあるみはら歴史博物館もあります。
河内鋳物師
河内鋳物師の前身は大陸からの渡来系氏族ともいわれ、難波津と飛鳥を結ぶ古代の官道である竹内街道(丹比道)に近いこの辺りでは8世紀頃にはすでに銅による鋳造が行われていたようです。日本御鋳物師発祥地碑の裏面 |
河内鋳物師は12世紀中ごろには、朝廷に鉄燈籠を献上したことなどによって鋳物事業を独占、平安時代から室町時代にかけて最盛期を迎え、この辺り一帯は大保千軒といわれるほど賑わっていたようです。その業績は鍋や釜、農機具といった日常雑器から寺の梵鐘の製作、さらには鎌倉の大仏、狭山池の改修にも尽力した重源(ちょうげん)による東大寺の大仏再建にも関わっています。
左から鍋宮大明神碑、大保千軒之碑、歌碑 |
その後、河内鋳物師は国内各地の需要に応じて分散居住し、河内の鋳物の中心地も流通に便のよい堺周辺へと移るなどしたため、さしもの「河内鋳物師」も衰退して行きましたが、後に堺では刃物や鉄砲が有名になることから、金属加工技術は受け継がれて行ったと考えられます。
鍋宮大明神は広国神社に合祀されました。 |
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