国府遺跡
2017年11月訪問
国府遺跡(こういせき)は大阪府藤井寺市東部にある遺跡です。今は静かな住宅街の真ん中にある遺跡ですが、大和川と石川の合流点のすぐ西側という交通の要衝であり、現在も国府や総社の地名が付いていることから、古くから河内の中心地であったことが想像できます。また、300mほど南西には古市古墳群を構成する古墳の一つ、允恭天皇陵古墳があります。
国府遺跡(藤井寺市) |
しかし、この遺跡からは、「河内国」が成立するはるか以前の旧石器時代から続く人々の生活の跡、縄文、弥生時代の土器や人骨などが発掘され、我が国の考古学的にも貴重な遺跡として国指定史跡となっています。
北側にある国府遺跡之碑 |
概要
大正5年(1916年)、畿内でも最も古くから石器の出土する遺跡として知られていた国府遺跡に、縄文時代より古い旧石器時代に作られた可能性が高い石器があることに注目したのが京都帝国大学(当時)の喜田貞吉講師でした。当時は日本に旧石器時代は存在しなかったと考えられていました。
平成28年に作られた説明板 |
翌年には同大学の浜田耕作教授による発掘調査が行われ、縄文・弥生式土器のほか、縄文時代の人骨3体を確認。人骨は手足を折り曲げて埋葬されていたことから、世界的にも珍しい例として報道され、一躍注目を浴びました。一方、依然として学会は旧石器時代の存在には否定的な見解を示し、昭和24年(1949年)に群馬県の岩宿遺跡での旧石器発見まで旧石器時代の研究は進まなかったそうです。
東側は草原の中に木々と大きな石があちこちに。 |
その他、藤井寺市の市章のモデルとなった「ケツ状耳飾」を装着している人骨も見られました(市章には前方後円墳のデザインも取り入れられています)。
河内国府跡
北側には花壇もあります。 |
前述のように、国府遺跡の所在地の地名は現在「総社」で、その南隣は「国府」という地名になっています。実際、国府遺跡の200mほど西には河内国総社とされる志貴県主神社(しきあがたぬしじんじゃ)があり、この周辺に河内国府があったと考えられています。また、周辺には国府八幡神社、黒田神社、大山咋神社といった神社があります。
南から見た大木 |
河内国(かわちのくに)は7世紀に成立した令制国(りょうせいこく)で現在の大阪府東部にあたり、だいたい北は枚方市から南は河内長野市までを領域とする南北に長い国でした。その中心となる役所が奈良時代から平安時代頃までこの辺りにあったのは間違いないようですが、正確な位置はまだわかっていません。
衣縫廃寺跡
義侠熊日氏之碑 |
また、当遺跡付近には飛鳥時代に我が国最古級の寺院が創建されました。寺院名は残っていないので字名から衣縫廃寺(いぬいはいじ)と呼ばれていますが、その塔心礎(とうしんそ)は今も史跡内に残っています。
中央の道から西側のグランド |
●藤井寺市ホームページ 国府遺跡と旧石器 →http://www.city.fujiidera.lg.jp/rekishikanko/shiteibunkazai/kunifusiteibunkazai/1387700134485.html
●藤井寺市ホームページ 国府遺跡発掘物語 →http://www.city.fujiidera.lg.jp/rekishikanko/kodaikaranomesseji/kunifuisanhakkutumonogatari/index.html
●藤井寺市観光サイト 国府遺跡 →http://www.city.fujiidera.lg.jp/kanko/spot/kankospotall/1459306979156.html
アクセス
近鉄南大阪線土師ノ里駅下車。「土師の里」交差点を右(石川方面)へ進み、一つ目の信号(押しボタン式)のある交差点を左折、国府八幡神社の鳥居前を通ってほぼ北に約600mです。八幡神社を越えてからは少し道がわかりにくいので地図があると良いでしょう。案内版はあまり見かけませんでした。遺跡公園西端から東を望む(奥は二上山) |
国府遺跡に駐車場はありませんが、「土師の里」交差点から国道170号線(旧道)を北に400mほど進み2つ目の信号を右(東)に入り(大和川方面からは左)少し行くと允恭天皇陵のそばにコインパーキングがあります。そこから徒歩で東に向かい、約200m先で左折すると突き当りに志貴県主神社があるのでその前を右に曲がり少し進むと国府遺跡(グラウンド)に着きます。
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