高見神社
2020年4月訪問
高見神社(たかみじんじゃ)は大阪府松原市高見の里にある神社です。その鎮座地は近鉄南大阪線「高見ノ里」駅から少し南の静かな住宅地の中にある池のほとりで、境内はとても手入れが行き届いている印象です。
高見神社(松原市) |
地域の氏神でありながら正確な御祭神は不祥ですが、かつて都が置かれたといわれるこの地ならではの伝説が残る神社でもあります。
歴史と概要
高見神社の正確な創建年は不祥です。また、前述のように御祭神も女神と伝えられているものの正確には不明となっていますが、松原市のホームページなどによると、高見神社はかつて「シンメイ様」と呼ばれていたことから、天照大御神や伊勢神宮を奉斎した「神明社」であったと推測されています。
また、高見神社の御祭神については松原市ホームページの「松原の民話第8話」に次のような伝説が紹介されています。
5世紀初頭の第18代反正(はんぜい)天皇の御代。反正天皇は第16代仁徳天皇の第三皇子で、容姿端麗とされますが特に歯が美しかったことから和風諡号は「多遅比瑞歯別天皇」となっています。反正天皇の治世は、穀物が豊作で平穏な世の中だったといわれており、在位は5年ほどでしたが、その間の都は河内丹比柴籬宮(かわちたじひのしばかきのみや)で、これは高見神社から1.3kmほど東にある現松原市上田の柴籬神社が伝承地とされています。反正天皇は頻繁に村々を視察して人々の生活の様子をご覧になったことから民からも慕われていたそうです。ある日、いつものように反正天皇が馬を走らせていると、現在の高見神社辺りで大量の藁たばを背負った少女に出会います。少女は周りを眺めて満足そうな笑みを浮かべていたので、天皇がその理由を尋ねられると、少女は「私は田畑も持たず、こうして藁を売り歩く貧しい者ですが、この地に立って噂の通りの大王(天皇)である事を知り、この地で生活をしようと決めたところです」、「ご覧下さい。この場所はこの辺りでは一番高い所にあります。この地で周りを眺めると、あちらこちらから夕食の支度をしているかまどの煙が、豊かな生活を象徴するようにたち昇っております」と、しっかりとした口調で答えたそうです。天皇はこの利発な少女を大層気にいられ、出会った地を「高見ノ里」と名付けて少女をこの地に住まわされたと伝えられています。後に少女は天皇の后となり、夜になると高見から柴籬宮へ赴く通い妻となった、と伝えられていることから、高見神社の神様は「夜にお参りに行っても留守なので昼間に参らねばならない」と伝えられているそうです。
高見神社の御祭神が女神ということでこの少女が祀られているともいわれますが確証はなく、「シンメイ様」と呼ばれることから、天照大御神が御祭神とも考えられます。
柴籬神社のホームページには、高見が柴籬宮に関連する地名の一つとして紹介されています。高見は大津道(長尾街道)と丹比道(竹内街道)の間にあり、長尾街道の高見の里付近と中高野街道の新堂付近とを斜めに結ぶバイパス的な住吉道が集落内を通っています。この街道は集落の中を通り北西および南東に延びていました。詳しく見ると、住吉道は高見村の300mほど北西で長尾街道につながる一方、南東に1km少々進むと中高野街道に通じており、その付近には十二社権現宮があります。
高見神社の鎮座地周辺は、かつて河内国丹比郡(たじひのこおり)と呼ばれていましたが、平安時代後期に丹比郡が丹南郡と丹北郡(たんぼくぐん)に分割されたことから丹北郡に属しました。江戸時代には河内国丹北郡高見村と呼ばれ天領、すなわち江戸幕府の直轄地となります。
高見村は明治22年(1889年)に岡村、立部村、新堂村、上田村、西大塚村、阿保村、田井城村と合併して松原村の大字高見となり、明治29年(1896年)には所属郡が中河内郡になっています。大正11年(1922年)出版の大阪府全誌によると、大字高見は柴籬神社の氏地となっています。松原村は昭和17年(1942年)に松原町になり、昭和30年(1955年)、中河内郡天美町、布忍村、恵我村、三宅村と合併して松原市が誕生します。
現在の高見神社の拝殿や鳥居などは、昭和60年(1985年)に再建されたものです。
高見神社は神職不在神社です。
祭礼
松原市のホームページなどによると、高見の氏神である高見神社の祭礼では地車(だんじり)ではなく「高見台楽」が知られていました。高見台楽とは、四本の丸太を井形に組んで直径90cm、長さ1.1mの大太鼓を乗せ、その上に直径2mの花傘を飾った太鼓台をねじりはち巻き、ハッピ姿の男衆が前後18人ずつで担ぎます。さらに、その後ろを女性たちが太鼓の音に合わせて歌いながら街中を練り歩くもので、始まりは不祥ながら、豊作を祈って催されたと伝えられています。
この辺りでは珍しいこの大太鼓はケヤキで安政2年(1855年)に造られ、昭和6年(1931年)に修理が行われているようです。その後、高見台楽は休止しますが、昭和55年(1980年)10月の秋祭りで約半世紀ぶりに復活。しかし、昭和62年(1987年)を最後に再び中断しています。
もともと台楽は、高見神社から少し北にある浄土真宗大谷派の敬念寺の太鼓楼に安置されていましたが、現在は高見神社境内の「郷土芸能高見台楽保存会格納庫」に保管されています。
境内
高見神社周辺は静かな住宅地ですが、西側は池となっています。その池の西側には府道12号堺大和高田線(ヤマタカ線)から南の阪南大学高等学校へ通じる「学園通り」があって、通り沿いには店が集まっています。
鳥居の額 |
高見神社は東西30m弱で、南北最大15mほどですが、東の方が狭い三角形のような境内となっています。社殿や鳥居は東向きですが、境内の参道は北側の道路(住吉道?)に合わせるように途中で折れ曲がっています。
入口のある東側と道路に面した北側は美しい玉垣が続いていますが、西側は池、南側は民家となっています。
手水鉢 |
境内に入ると、すぐ右手に手水鉢があります。
百度石 |
石畳の参道を進み鳥居をくぐると右手には百度石が建っています。
参道の先の社殿など |
拝殿 |
昭和60年に建て替えられたという社殿は今も美しく手入れされているようです。現在は見ることが出来ませんが、女神が祀られているからか、建て替えられる前の社殿の屋根には女性のシンボルが掲げられていたそうです。
拝殿前から鳥居を望む |
社殿だけでなく、境内全体が綺麗に掃き清められており、南側の壁沿いにはベンチや花が植えられたプランターも置かれていました。境内の樹木は多くありませんが、楠、榎、銀杏の大木と、まだ小さな松の木があります。
鳥居横にまとめられた石造物 |
入口の鳥居の左側には、建て替え前の高見神社で使われていたと思われる、宝暦12年(1762年)9月や文政5年(1822年)正月奉納といった古い3基の石灯籠(部分)と一対の狛犬、そして3つの石碑がまとめて置かれています。
この内、上に帝国陸軍の星章が付いた「高見在郷軍人」と「行幸記念」の2基は特に大きく目立ちます。これは昭和7年(1932年)に河内平野一帯で行われた陸軍特別大演習の際、野外統監部として高見の南に接する南河内郡北八下村河合(現松原市河合)の帝国女子薬学専門学校が指定されたことと関係しています。この統監部には昭和天皇も行幸される予定だったため「行幸記念」碑が彫られたようですが、結局は実現しませんでした。しかし、参謀総長の閑院宮載仁親王(かんいんのみやことひとしんのう)など皇族方の視閲があったことからこの記念碑が建てられたそうです。
ちなみに、大阪市東区(現中央区)道修町(少彦名神社が鎮座)にあった帝国女子薬学専門学校が南河内郡北八下村に移転してきたのは昭和7年で、同校は昭和25年(1950年)に大阪薬科大学に昇格しています。同大学は平成8年(1996年)に松原市から高槻市へ移転し、その跡地は阪南大学高等学校となりました。学校敷地の南には河合神社があります。
郷土芸能高見台楽保存会格納庫 |
本殿の裏、境内の南西隅に高見台楽を保管している「郷土芸能高見台楽保存会格納庫」があります。なお、この格納庫は池の上に建っています。
高見神社周辺には、60mほど北に前述の敬念寺が、90mほど南東に「弘法大師の井戸」と呼ばれる井戸があります。
アクセス
近鉄南大阪線「高見ノ里」駅南側の府道12号の「高見の里駅前」交差点から南に進み100m少々先の十字路を右折し、さらに100mほど進むと高見神社の鳥居があります。
あるいは、駅前から約150m西の「高見学園通り」交差点を南へ進み、100mほど先の池の角を左折。さらに30mほど東に進むと右手に高見神社が見えて来ます。なお、松原市内公共施設循環バスぐるりん号西ルートの「高見の里3丁目」バス停が「高見学園通り」交差点のそばにあります。
北西側から見た高見神社 |
神社周辺は道幅の狭いところもあり、参拝者用駐車場も無いようなので、車の場合は「高見ノ里」駅周辺でコインパーキングを利用するのが良いと思われます。
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