【街歩き】山本稲荷神社 山伏弁財天 大平大明神(大阪狭山市) ・かつての河内国丹南郡山本新田

旧山本新田

2020年11月訪問
現在の大阪府大阪狭山市山本は、かつては河内国丹南郡山本新田と呼ばれていました。山本地区は、大阪狭山市のほぼ中心に位置する日本最古のダム式ため池、狭山池の北西にあり、堺市の東区、中区、南区と接しています。堺市の東区と美原区は旧河内国でしたが、それ以外の区域はかつての和泉国でしたので、山本新田は国の境にあった村といえます。

旧山本新田(大阪狭山市)
旧山本新田(大阪狭山市)

現在の山本地区は、中世には狭山郷日置荘に属していましたが、周辺はかつて河内国と和泉国にまたがる大野の芝地、大野ヶ原、大野芝山などと呼ばれた未開発の丘陵地でした。この「大野」という地名は今も大野芝町(堺市中区)や大野台(大阪狭山市)などの地名に残されています。

元禄15年(1702年)に大野芝山が開拓され新田が開かれると、山本地区は河内国丹南郡山本新田と呼ばれるようになりました。明治維新後の明治22年(1889年)に山本新田は茱萸木新田、西山新田、大野新田、今熊村、岩室村と合併して三都村(さんとむら、みつむら)となり、明治29年(1896年)には所属郡が南河内郡となります。明治43年(1910年)に山本新田から大字山本に改称。その後、三都村は昭和6年(1931年)に狭山村と合併し、改めて狭山村が発足。昭和26年(1951年)に狭山町に、昭和62年(1987年)に南河内郡狭山町が市制施行して大阪狭山市となりました。


西高野街道

旧山本新田では、村内を南北に貫く西高野街道を中心に集落が形成され、「山本」を本村として北側の「口大野(くちおおの)」や西側の「隠(かくれ)」、東側の「山伏」などの枝村も生まれたようです。

本村の北にある口大野は村の北の入口で、街道の東側にある現在の山本北付近と思われます。隠は街道の西側で、丘陵地の森などで金剛山が隠れて見えなかったことから付けられた「金剛山隠(こごせかくし)」が由来とされ(諸説あり)、現在は堺市中区陶器北に含まれるようです。山伏は現在の山本稲荷神社から400mほど東に位置する現在の山本東周辺のようですが、この地名はかつて山伏が地元の寺で僧侶と囲碁で勝負をしたことから付けられたともいわれています。

旧山本新田(大阪狭山市) 西高野街道
西高野街道の道標と地蔵尊

西高野街道は、いくつかある高野街道の中で最も西側を通る、堺から高野山へ至る街道です。その起点は堺旧市街の「大小路」で、途中仁徳天皇陵のそばなどを通ります。大阪狭山市内では、北から山本、岩室、今熊、茱萸木を南下し、河内長野市の楠町東で「中高野街道」と、その後古野町で「東高野街道」と合流し一路高野山を目指します。

旧山本新田(大阪狭山市) 西高野街道
雰囲気の残る西高野街道

現在の西高野街道には比較的新しい「西高野街道」と刻まれた道標が各所に設置されています。また、山本地区付近では大阪狭山市と堺市との市境にもなっています。


山本稲荷神社

山本稲荷神社(やまもといなりじんじゃ)は現在の住所で大阪狭山市山本北にある神社です。

旧山本新田(大阪狭山市) 山本稲荷神社
山本稲荷神社

西高野街道からは少し東に鎮座する山本稲荷神社はかつての山本新田の鎮守社で、明治時代には村社に列しましたが、明治42年(1909年)に2kmほど南の今熊にある三都神社(熊野神社)に合祀されました。

旧山本新田(大阪狭山市) 山本稲荷神社
山本稲荷神社の社殿

大阪府全志などによると、御祭神は宇賀御魂神に加え誉田別命、火産霊神となっていますが、現在の社殿を見ると稲荷神、弁財天、そして合祀先の三都神社の御札などが祀られています。

旧山本新田(大阪狭山市) 山本稲荷神社
南東から見た山本稲荷神社

鎮座地については、明治時代の地図を見ると今の山本中にあった小野ヶ池(現在はほぼ埋め立てられ山本3号公園などになっています)のすぐ北だったようですが、現在の山本稲荷神社鎮座地は山本北、つまり、かつての口大野のようです。山本稲荷神社は三都神社に合祀された後に復社した際、何らかの理由で旧社地ではなく現社地に移されたと思われます。


ちなみに、西高野街道沿いに鎮座する池之原神社茱萸木八幡宮は三都神社から復社した神社です。


山伏弁財天

弁財天は現在の住所で大阪狭山市山本東にある神社です。参道入口には昭和49年(1974年)7月に建てられた「辨財天」の社号標がありますが、当記事では地名から山伏弁財天と表記します。

旧山本新田(大阪狭山市) 山伏弁財天
「辨財天」の社号標のある参道入口
 
こちらの弁財天は西高野街道ではなく、現代の主要道路である国道310号沿い西側に鎮座していますが、表参道は弁財天東側の国道ではなく、西側の道路から延びています。

旧山本新田(大阪狭山市) 山伏弁財天
山伏弁財天

道路から少し高い位置にある弁財天へは、石段を上り参拝します。

旧山本新田(大阪狭山市) 山伏弁財天
鳥居

石段を上ると参道は左に折れ、その先に朱色の鳥居が二つ建っています。

旧山本新田(大阪狭山市) 山伏弁財天
手水鉢

全体的にそれほど古い感じでは有馬せんが、手水鉢などは歴史を感じさせます。

旧山本新田(大阪狭山市) 山伏弁財天
社殿

丘の上の社殿は南西を向いています。

旧山本新田(大阪狭山市) 山伏弁財天
祭壇の様子

社殿の中には祭壇があり、その上にはそれぞれ異なった形の三つの小社が祀られていますが、祭壇の左側の小さな鳥居の後ろには文字が彫られた石(磐座?)が祀られています。

三つの小社から三柱の神が祀られていると思われますが、この内のいずれかに弁財天(宗像三女神の一柱である市杵嶋姫命と同一視されることが多い)が祀られているようです。また、祭壇には稲荷社でお馴染みの狐の像も多数あります。

当弁財天に説明板や由緒記は見当たりませんでしたが、郷土史によると、明治の末に山本の鎮守社、村社であった前出の稲荷神社は三都神社に合祀されましたが、山本の山伏地区では合祀以前から家単位で祀っていた稲荷社があり、合祀後にその稲荷社を山伏全体で祀るようになったそうです。資料では山伏集落の東端に稲荷社が祀られているとありますが、現在の山伏弁財天社殿内にある多数の狐から、三つの小社の一つがこの稲荷社とも考えられます。


大平大明神

大平大明神は現在の大阪狭山市山本南にある稲荷社です。

旧山本新田(大阪狭山市) 大平大明神
大平大明神

その鎮座地は、山本稲荷神社から西高野街道を500mほど南に下った東側にある山本自治会館のそばとなっています。

旧山本新田(大阪狭山市) 大平大明神
西高野街道(左)に接して鎮座

真新しい自治会館の西隣り、西高野街道と挟まれる形で南向きに鎮座されています。

旧山本新田(大阪狭山市) 大平大明神
鳥居

稲荷神社でお馴染みの朱色の鳥居に掲げられた額には「大平大明神」とあり、その手前左側に手水鉢が置かれ、右側に地蔵尊が祀られています。

旧山本新田(大阪狭山市) 大平大明神
小社と大神宮灯篭

一対の狐の奥に社があります。また、社殿に向かって右手奥に大神宮灯篭が建っていることがわかります。

大平大明神も説明板などはありませんが、郷土史によると、山伏弁財天と同様に村社の山本稲荷神社が合祀された後に家単位で祀っていた稲荷社を山本南の住民の方々で祀るようになったようです。


アクセス

堺市中区の国道310号「福田南」交差点から西高野街道を南に進み、約1.2km先の山本地区の地図のある角を左(東)に入ると80mほど先に山本稲荷神社があります。大平大明神へはそのまま街道を500mほど南下します。山伏弁財天は国道310号「池之原北」交差点から約200m北の西側(恒尚会兵田病院の南側)です。

大阪狭山市内の南海高野線の駅などから乗車できる大阪狭山市のコミュニティバス(さやりんバス)を利用し、山本稲荷神社裏手(東側)にある「山本北」バス停などで下車すると便利です。

Yamamoto-shinden(Osakasayama City,Osaka Prefecture)


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