三都神社(大阪狭山市) ・熊野権現を勧請した市内西部を氏子地区とする神社

三都神社

2021年11月訪問
三都神社(さんとじんじゃ)は大阪府大阪狭山市今熊にある神社です。その鎮座地は日本最古のダム式ため池とされる狭山池の南西、大阪狭山市と堺市南区との境界近くで、周辺には古くからの集落や新興住宅地があるものの、木々に囲まれた大変静かな環境となっています。

三都神社(大阪狭山市)
三都神社(大阪狭山市)

明治時代の末に周辺にあった多数の神社を合祀した三都神社の氏地は広く、秋祭りには複数の地車(だんじり)が出て賑わいます。また、拝殿の南側には多数の境内社が並んでおり、様々な御神徳のある神様が祀られています。


歴史と概要

三都神社の正確な創建年は不祥です。7世紀に創建されたとの説もあるようですが、大阪狭山市の資料などでは、中世前期に紀伊国熊野から勧請した熊野権現を祀ったのが始まりとされています。江戸時代頃までは熊野三所権現や熊野神社と呼ばれており、御祭神として伊弉那美命を祀っていました。

三都神社の社殿や参道は南東の旧今熊村(現大阪狭山市今熊)集落の方を向いていますが、本殿の背後(北西)200mほどの距離に天野(あまの)街道が通っています。天野街道は上今熊地区で紀州高野山へと向かう西高野街道と分岐し、女人高野といわれた天野山金剛寺(河内長野市天野町)へと向かう道です(街道近くには青賀原神社(河内長野市下里町)などもあり)。

天野街道は河内国と和泉国とを分ける陶器山(とうきやま)丘陵の尾根を通る街道で、かつては天野山金剛寺だけでなく、さらにその先の紀州熊野詣でに向かう人々も歩いた道で、その歴史は西高野街道よりも古く平安時代後期にはすでに整備されていたともいわれています。天野街道は、平成7年(1995年)度に建設省(現国土交通省)の「手づくり郷土賞」を、平成9年(1997年)度には「大阪の道99選」にも選出されています。

熊野への参詣道として利用された天野街道や高野街道が通る大阪狭山市では熊野信仰が盛んな地域も多かったようで、この三都神社だけでなく旧岩室村にも熊野神社(現池之原神社)がありました。

前述のように、三都神社はかつて熊野三所権現や熊野神社と呼ばれていましたが、このような神社は全国にあり、熊野三山の主祭神として祀られる、熊野本宮大社の家都美御子大神(けつみみこのおおかみ)、熊野速玉大社の熊野速玉男神(くまのはやたまおのかみ)、熊野那智大社の熊野牟須美神(くまのむすみのかみ)を祀っていることが多いようです。これら三柱の神は順に素盞鳴尊(須佐之男尊・すさのおのみこと)、伊邪那岐命(伊奘諾尊・いざなぎのみこと)、伊邪那美命(伊奘冊尊・いざなみのみこと)と同一視され、現在の三都神社の御祭神もこの三神としている資料もあるようです。


当地に勧請された熊野三所権現は「今熊野」とも呼ばれ、金蔵寺の鎮守として祀られたようですが、享禄年間(1528年~1532年)に兵火に罹り焼失。その後、天文15年(1546年)9月に寺僧の諦観によって再建されました。

明治の神仏分離で金蔵寺は廃寺となったようですが、当社鎮座地の字名が金蔵院原となっている他、付近には光明院跡、西室院跡、地蔵院跡などの地名が残っています。これらのことから、現在の社殿付近から南部丘陵にかけての広い地域に伽藍と鎮守の社地があったと考えられています。

三都神社(大阪狭山市)
説明板

本地の産土神であった当社は、明治5年(1872年)に近代社格制度で村社に列格。明治40年(1907年)12月23日に、当時の南河内郡三都村大字岩室字宮山にあった村社熊野神社(御祭神:伊弉奈美命)をはじめ、大字岩室字笠塚山の村社琴平神社(大物主命・火結神・大年神)、大字岩室字愛宕山の村社愛宕神社(火雷神)、大字岩室字濁池の村社厳島神社(市杵島姫命)、大字茱萸木字宮谷の村社八幡神社(誉田別命・天照皇大神・保食神)、大字西山字菰池原の村社琴平神社(大物主神)、大字大野字萬燈塔の村社八幡神社(誉田別命)、大字山本字宮谷の村社稲荷神社(宇賀御魂神・誉田別命・火産霊神)といった8つの村社を合祀しました。

これは、その20年ほど前に6つの村を合併して誕生した三都村内の神社を合祀したことになり、その為か社号も現在の三都神社に改められました。なお、この頃の末社は春日社と稲荷社が確認できます。また、翌年の明治41年(1908年)12月には神饌幣帛料供進社に指定されています。

その後、岩室の熊野神社は池之原神社として旧社地に、茱萸木の八幡神社山本の稲荷神社も旧村域内に復社しています。


昭和58年(1983年)に郷土資料館による文化財調査が行われ、その際に発見された毘沙門天像は鎌倉時代末期の作であることが判明しています。


現在の三都神社の境内には三都戎神社の拝殿と本殿がある他、春日社、初辰大神、熊野三宝荒神、稲荷大神、祖霊社、毘沙門天堂、吉祥水天宮といった境内社も建ち並んでいます。

三都神社(大阪狭山市)
境内社の参拝順路

周辺の地名について

鎮座地である今熊は古くは別所と呼ばれ、中世には狭山郷日置荘に属していたようです。紀州熊野から熊野権現を勧請後に、今、つまり最近勧請した熊野神社を意味する「今熊野」が今熊という地名の由来とされています。その鎮座地周辺は明治の初めまで河内国丹南郡今熊村と呼ばれていましたが、明治22年(1889年)の町村制の施行により岩室村、茱萸木新田、西山新田、山本新田、大野新田と合併して三都村(さんとむら・みつむら)となりました(役場は大字茱萸木)。明治29年(1896年)には所属郡が丹南郡から南河内郡に変更。その当時の当社の所在地住所は南河内郡三都村大字今熊字金蔵院原となっています。

三都村の三都は、三つの都市(大阪・京都・奈良など)を連想してしましますが、大阪府全史によると、明治時代に今熊村、岩室村、茱萸木新田、西山新田、山本新田、大野新田の6つの村が合併するにあたり、その内の3つの村(今熊、茱萸木、西山の3村?)の住人が隣り合って暮らしている「三都(みつ?)」という字があったのでその字名を採用して三都村とした、とされています(今熊には他に、おわり坂を境に上今熊と下今熊の集落がありました)。

これは狭山池南西の「みつや」と呼ばれた地区のことのようで、明治時代の地図には「亀の甲」の南に「ミツヤ」と記されています。他に「三ツ家」、「三つ屋」、「三つ谷」などの表記もあったようで、現在でも三津屋川、三津屋橋、三津屋バス停、三津屋地蔵尊、三津屋大師堂などの名が残っています。

その後、三都村は昭和6年(1931年)に狭山村と合併し、改めて狭山村が発足。昭和26年(1951年)には狭山村が町制施行して狭山町となり、昭和62年(1987年)に大阪府南河内郡狭山町から市制施行して大阪狭山市が誕生しました。


祭礼

三都神社には別宮の三都戎神社があり、毎年1月には特に関西でお馴染みの十日えびす(えべっさん)があります。

10月には秋祭り(例大祭)が行なわれますが、大阪狭山市内では狭山神社と共に多くのだんじりが宮入することで知られています。三都神社には今熊、大野、山伏、山本、隠の各地区からだんじりが出て宮入します(山本と隠は堺市中区上之の陶荒田神社との二重氏子)。


境内

三都神社は、かつての河内国と和泉国の国境で今は大阪狭山市と堺市南区の境界となっている陶器山の南側にあります。

三都神社(大阪狭山市)
参道入口周辺

東西に細長かった旧今熊村集落の西端付近から少し北西に上った所に三都神社が鎮座しています。

三都神社(大阪狭山市)
文殊地蔵尊

拝殿まで続く参道の石段の上り口周辺は少し広くなっていて、左側に文殊地蔵尊があります。こちらの地蔵尊は地蔵堂の周りにさらに覆い屋が設けられています。

三都神社(大阪狭山市)
板碑

文殊地蔵尊の右側には6枚の薄い墓石のようなものが並んでいますが、これは板碑(いたひ)というものです。

三都神社(大阪狭山市)
板碑の説明

説明文によると、板碑は板石塔婆ともいう大変珍しいもので、信仰する対象を種字などで彫ってあるそうです。頭を三角形にして直下に横線を二条入れ、その下に種字や仏像を彫ったものは鎌倉時代から室町時代にかけて流行したそうです。

三都神社(大阪狭山市)
石段と社号標

石段の上り口右手には社号標や説明板があります。

三都神社(大阪狭山市)
鳥居と灯篭

石段の中ほどに踊り場があり、石造りの鳥居と一対の石灯篭があります。

三都神社(大阪狭山市)
手水舎

鳥居の手前、左側に手水舎があります。

三都神社(大阪狭山市)
水盤の側面

こちらの水盤の側面には「三所大権現」や「毘沙門天王」の文字が見えます。

三都神社(大阪狭山市)
石段から見た拝殿

石段を上り切ると、正面に拝殿が見えます。拝殿手前には狛犬と多数の石灯篭がありますが、江戸時代のものが多いようでした。

三都神社(大阪狭山市)
拝殿内

さらに短い石段を上って参拝します。拝殿の奥には幣殿、本殿と続いているようです。

三都神社(大阪狭山市)
授与所

拝殿の右手には御守りや御札の授与所があります。

三都神社(大阪狭山市)
拝殿前から見た境内北側

拝殿から右に進むとすぐに境内の北東端となっています。周囲には木々が生い茂っていますが、鎮守の杜は大阪狭山市の保存指定樹林に指定されているそうです。

三都神社(大阪狭山市)
拝殿前ら見た境内南側

拝殿前から左手(南西)の方は広場のようになっており、その奥に様々な建物も見えます。

三都神社(大阪狭山市)
百度石

なお、百度石は最初の石段を上った左側(広場の北東)にあります。

三都神社(大阪狭山市)
本殿への石段

拝殿の左手奥に回ると、さらに高い場所にある本殿の一部を見ることが出来ます。本殿は一間社流造で正面中央に千鳥破風が設けられています。

三都神社(大阪狭山市)
拝殿南側に並ぶ境内社

拝殿左側の少し奥には多数の境内社が並んでいますが、手前の立て札に参拝順序が記されています。それによると「春日社→初辰大神→熊野三宝荒神→稲荷大神→祖霊社→毘沙門天堂→吉祥水天宮→三都戎本殿→三都戎拝殿」の順に参拝すると良いようです。

三都神社(大阪狭山市)
右から春日社・初辰大神・熊野三宝荒神・稲荷大神

三都神社(大阪狭山市)
左手から見た上記と同じ境内社

最初の春日社、初辰大神、熊野三宝荒神、稲荷大神は少し高い石垣の上に鎮座しています。

三都神社(大阪狭山市)
あかるい石

春日社、初辰大神、熊野三宝荒神、稲荷大神が並んでいる前に小さな池と「あかるい石」があります。

三都神社(大阪狭山市)
あかるい石の説明

「あかるい石」を撫でて、心に余裕を持ち、明るく生きる人間になりましょう。ということのようです。

三都神社(大阪狭山市)
毘沙門天堂と祖霊社

「あかるい石」からさらに進むと、祖霊社と毘沙門天堂があります。こちらは同じ建物内に祀られていおり、社頭には広場から上る階段の他、毘沙門天堂と祖霊社それぞれに立派な社号標社号が建てられています。

三都神社(大阪狭山市)
一石五輪塔

毘沙門天堂と祖霊社の前の木の根元に、一つの石から彫り上げた「一石五輪塔」があります。

三都神社(大阪狭山市)
一石五輪塔の説明

こちらの一石五輪塔は、大阪狭山市内に存在する年号のある石造物として最古のものとされています。

三都神社(大阪狭山市)
吉祥水天宮

毘沙門天堂・祖霊社の左側に吉祥水天宮があります。同市内の水天宮としては、狭山池の畔に狭山池水天宮があります。

三都神社(大阪狭山市)
三都戎神社

水天宮の左手にあるのが三都戎神社ですが、こちらは立派な本殿と拝殿からなり、さらにその前には灯篭や狛犬も配されています。

三都神社(大阪狭山市)
三都戎本殿

先ほどの参拝順を記した立札では、三都戎本殿→三都戎拝殿となっていたので、まずは拝殿裏の本殿(水天宮の隣にあります)に向かいます。

三都神社(大阪狭山市)
戎神社の参拝方法

本殿には「恵美寿大神様はお耳が遠うございます 裏へ廻って槌で鳴板をたたいてお詣りください」と書かれた板があります。

三都神社(大阪狭山市)
戎社の裏側

本殿に向かって右側かわから裏に回ると、注連縄の下に鳴板、さらにその下に小さな賽銭箱があります。

ここで備付けの木槌で鳴板を叩き、耳の遠い恵比須様に願いを聞いていただくのが当戎神社の参拝方法となっています。このような参拝方法は、南河内では富田林寺内町近くの富栄戎神社(富田林市富田林町)でも見られます。

なお、今回の訪問時は新型コロナウイルス感染症蔓延防止の観点から、手水舎の柄杓同様に木槌も撤去されていました。

三都神社(大阪狭山市)
えびす像

本殿左手から拝殿前に出る途中には、鯛を持ったえびす像があります。

三都神社(大阪狭山市)
神社南西にあるスロープ

巡礼街道であった天野街道や西高野街道に近い今熊地区では紀州熊野から熊野権現が勧請されて産土神となり、地名にもその名が残っているということで興味深い神社でした。今も初詣からえべっさん、秋祭りと、広大な氏子地区の人々にとって大切な神社であると感じられました。


アクセス

府道34号堺狭山線の「岩室東」交差点からいちょう通りを南に進み、400mほど先の「おわり坂」交差点を右斜め前方に入ります。後は道なりに約850m進むと(途中に江戸時代に建てられた法界塔の一部や太神宮灯篭もあります)、右手に三都神社の石段などが見えます。

石段下の文殊地蔵尊の前付近が少し広くなっていますが、参拝者の駐車が可能かどうかは不明。七五三などの時期には40mほど南の月極駐車場の一部が臨時駐車場として使えることもあるようです(案内が出ていない時は使用不可)。

三都神社(大阪狭山市)
東から見た「おわり坂」交差点(左斜め前方が神社方面)

公共交通機関では、大阪狭山市の市役所などから乗車できる市のコミュニティバス(さやりんバス)の「ニュータウン回り」に乗車し「三都神社前」バス停で下車。20mほど北に進むと左手に三都神社があります。

Santo Shrine(Osakasayama City,Osaka Prefecture)


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