狭山池水天宮(大阪狭山市) ・さやま遊園を護る水の神

狭山池水天宮

2018年4月訪問
狭山池水天宮(さやまいけすいてんぐう)は大阪府大阪狭山市狭山にある神社です。狭山池東側の防災公園である「さやか公園」の近くで、新しい住宅街に鎮座する小さな神社ですが、駅からさやか公園や狭山池に向かう途中の交差点の角という目立つ場所にあるので目にする方も多いと思われます。

狭山池水天宮(大阪狭山市)
狭山池水天宮(大阪狭山市)



歴史と概要

狭山池水天宮の鎮座するこの辺りは、明治まで狭山藩の藩主である北条家の下屋敷のあった場所で、南河内郡狭山村(当時)の村民のために有効利用して欲しいということで北条家から寄贈された土地です。その狭山藩下屋敷跡地を利用して、昭和13年(1938年)5月1日に、南海電鉄会社によって開園したのが「さやま遊園」です。

その「さやま遊園」の来園客や従業員等の安全祈願のために建立されたのが狭山池水天宮です。正式な建立の時期はわかりませんでしたが、祭神は狭山池にちなんで水の神である罔象女神(みづはのめのかみ)が祀られています。水難・水害除け、渡航安全、安産、子授けなどの御利益があるとされ、地域住民から「水天さん」と呼ばれ拠り所とされてきました。

その後、遊園地が平成12年(2000年)4月1日をもって閉園したため、平成16年(2004年)5月に現在地に遷座しました。毎年8月に例大祭があります。

狭山池水天宮(大阪狭山市)
神社北側より

当社と密接な関係のさやま遊園についても簡単に振り返ってみると、遊園地は第二次大戦中から戦後にかけて荒廃し、昭和27年(1952年)から昭和30年(1955年)まで競艇場「狭山競走場」として利用された後、昭和34年(1959年)4月1日に南海観光開発会社が経営を再開。その後は南海電鉄が経営してきました。ちなみに、最寄駅は南海高野線「狭山遊園前駅」で、これは現在「大阪狭山市駅」と改名されています。

境内

神社の周辺は、さやま遊園の閉園後の跡地などに再整備された住宅街のようで、前の道路も綺麗で広々しています。

狭山池水天宮(大阪狭山市)
真新しい鳥居や玉垣

駅からさやか公園の方に向かって歩くと、公園の手前の交差点左側の一角に真新しい石の鳥居や玉垣が目に入ります。

狭山池水天宮(大阪狭山市)
石碑と水盤

鳥居の左手には手水用の水盤と水天宮の由緒が記された石碑があります。

狭山池水天宮(大阪狭山市)
狭山池水天宮の御由緒

石碑には前述のような狭山池水天宮についての由緒が刻まれています。

狭山池水天宮(大阪狭山市)
罔象女神を祀るお社

境内はコンパクトで、鳥居をくぐるとすぐ左手に本殿と燈篭、賽銭箱などがあります。比較的新しい神社とはいえ、とても手入れが行き届いている印象を受けました。

狭山池水天宮(大阪狭山市)
神社東側の広場

水天宮の隣にはちょっとした広場があり、ベンチや神社からのお知らせのための掲示板、そして末永雅雄博士についての説明板があります。

末永雅雄博士と狭山

末永雅雄(すえながまさお(明治30年(1897年)~(平成3年(1991年))博士は、橿原考古学研究所初代所長も務めた考古学者で、大阪府南河内郡狭山村(現大阪狭山市)生まれの博士です。

狭山池水天宮(大阪狭山市)
「末永雅雄と狭山」の説明板

奈良県の石舞台古墳や高松塚古墳の発掘調査を指揮した他、津堂城山古墳など古墳の航空査察を実施するなど、日本の考古学の礎を築いた人物で、その輝かしい功績で昭和55年(1980年)に南河内郡狭山町(当時)の名誉町民に、昭和63年(1988年)には考古学者として初めて文化勲章を受章しました。大正時代、狭山池の大改修時に文化財調査を担当し、著書「池の文化」などを出版。大阪府立狭山池博物館には博士が調査研究した狭山池の文化財が展示されています。

●関連記事 →【街歩き】日本最古のため池と河内の北条氏(大阪狭山市) 狭山池・大阪府立狭山池博物館・狭山藩陣屋跡・さやま遊園跡

アクセス

南海高野線「大阪狭山市駅」を出て、線路西側(狭山池寄り)の道を南へ約150m、道なりに右に曲がったのち、真っすぐ300m弱進んだ左側にあります。

府道198号からは大阪狭山市役所とSAYAKAホールの間の交差点(信号あり)を西へ100mほど進んだ左側です。さやか公園の駐車場が斜向かい(北西)にありますが、専用駐車所はないようです。

なお、狭山池の南には狭山神社、北には狭間神社、西には池之原神社が鎮座しています。

Sayamaike-Suitenguu Shrine(Osakasayama City,Osaka Prefecture)


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