茱萸木八幡宮(大阪狭山市) ・三都神社から復社した氏神様

茱萸木八幡宮

2021年1月訪問
茱萸木八幡宮(くみのきはちまんぐう)は大阪府大阪狭山市茱萸木にある神社です。日本最古のダム式ため池である狭山池の南に広がる茱萸木(くみのき)地区は歴史ある西高野街道沿いに発展したもともとの集落と、西側の丘陵地に造られた新興の住宅地から成ります。

茱萸木八幡宮(大阪狭山市)
茱萸木八幡宮(大阪狭山市)

そんな茱萸木地区の産土神として祀られる茱萸木八幡宮は現在、公民館前の広場の一角にある小さな神社ですが、かつては丘の上に鎮座し、長い参道を持つ神社だったようです。


歴史と概要

茱萸木八幡宮の正確な創建年は不祥ですが、茱萸木新田の開発が始まった寛永14年(1637年)以降と考えられます(寛永18年(1641年)とも)。大阪狭山市の資料によると、現在の河内長野市寺元にある観心寺槇本院(まきもといん)の法印(僧位の最上位)照秀(しょうしゅう)が村の鎮守(氏神)として勧請した八幡神社がその始まりであるとされます。

鎮座地周辺は明治時代の初めまで河内国丹南郡茱萸木新田と呼ばれていましたが、明治22年(1889年)の町村制の施行により今熊村、岩室村、西山新田、山本新田、大野新田と合併して三都村(役場は大字茱萸木)となり、明治29年(1896年)に所属郡が丹南郡から南河内郡に変更されました。その当時の茱萸木八幡神社(現茱萸木八幡宮の前身)の所在地は三都村大字茱萸木字宮ノ谷となっていますが、これは現在の大野台1丁目付近となります。

茱萸木八幡宮(大阪狭山市)

明治時代末期の神社合祀政策により、明治40年(1907年)12月23日に今熊の熊野神社(三都神社)に合祀され旧社地も処分されました。第二次大戦後に「やはり地元に神社を」という声が高まった結果、昭和50年代に茱萸木中央公民館(正法寺公民館)前の広場に八幡神社を勧請し、地区の住民でこれを祭祀することとなり、昭和60年(1985年)7月29日に竣工式と遷座式が執り行われました。これにより、茱萸木地区は三都神社の信仰圏(氏子地区)から脱することとなりました。

ちなみに、三都神社に合祀された池之原神社山本稲荷神社狭山神社に合祀された狭間神社も後に復社していますが、いずれも氏子地区は合祀先の神社のままとなっています。


御祭神に関しては、八幡社ということでもともと誉田別命(ほんだわけのみこと=第15代応神天皇)のみだったと思われますが、大正時代の書物では天照皇大神、保食神(うけもちのかみ)の三柱となっており、現在境内にある石碑には御祭神が八幡大菩薩(誉田別命)、愛宕大権現、天照皇大御神、稲荷大明神(保食神)とあります。

祭祀

茱萸木地区が三都神社の氏子地区から脱することとなり、10月の秋の地車(だんじり)祭での宮入も当社にて行われるようになりました。だんじりは茱萸木北と茱萸木南の2台ありますが、小屋は茱萸木8丁目の同じ敷地内にあるようです。

茱萸木という地名

現在の大阪狭山市域には、江戸時代から明治時代に移る時点で池尻村、半田村、東野村、今熊村、岩室村、山本新田、茱萸木新田、西山新田、大野新田の9つの村がありました。これらの内「新田」と付く4つの村は江戸時代に入って新たに開発された村です。

茱萸木新田の開発が始まったのは寛永14年(寛永18年とも)で、大阪狭山市のほぼ中心に位置する狭山池南側の中位段丘面に開かれた村です。「茱萸木の芝」を開墾して造られた当村は西高野街道に沿うように南北に細長い地域を村域としていました。これは今の大阪狭山市茱萸木、東茱萸木などに当たります。また、字として北から亀之甲、茱萸木、草澤がありました。

大阪狭山市史などによると、「茱萸木」の由来として、春日大社(現奈良県奈良市)に残る弘長3年(1263年)に出された興福寺(現奈良県奈良市)宛ての太政官符に見える「佐志久美岡(さしくみのおか)」から転じたものとあります。この太政官符には「久佐佐峰道」という地名もあり、こちらは「草澤」になったと考えられています。また、江戸時代に書かれた「河内誌」では、古来この地に多くのグミの木が生えていたことからその名が付けられたとあるようです。なお、植物は「グミ」ですが当地は「くみのき」と濁りません。

茱萸木新田はもともと幕府領(天領)でしたが、宝永2年(1705年)以降は上野国(現群馬県)の館林藩領になりました。

明治時代の行政区画変更などについては前述の通りですが、その後の三都村は昭和6年(1931年)に狭山村と合併し、改めて狭山村が発足。昭和26年(1951年)には狭山村が町制施行して狭山町となりました。昭和62年(1987年)に大阪府南河内郡狭山町から市制施行して大阪狭山市となった際に大阪狭山市茱萸木へ町名変更されましたが、翌年には南海金剛住宅とその周辺が東茱萸木に町名変更されています。

境内

現在の茱萸木八幡宮は茱萸木5丁目を通る西高野街道の少し西、茱萸木中央公民館の敷地内にあります。

茱萸木八幡宮(大阪狭山市)
公民館入口より

この公民館は補陀落山正法寺という寺院があった場所に建てられたようで、八幡宮は公民館敷地の北東に鎮座しています。

茱萸木八幡宮(大阪狭山市)
公民館東側にある参道

南側にある公民館敷地の入口から北に向かって直線の参道となっているようです。

茱萸木八幡宮(大阪狭山市)
石造物

少し参道を進むと、右手(東側)に旧社地にあったと思われる古い石灯籠などが置かれています。この内、八幡宮の常夜灯(一部)の後ろの石造物には「東照大権現」とあるようですが、茱萸木が天領であったことと関係があるのでしょうか。また、その左側手前の石燈籠には「大悲界燈樓」とあります。

それらの左側にはまだ新しい石碑があり、現在の御祭神や祭祀日が刻まれています。

茱萸木八幡宮(大阪狭山市)
八幡宮の手水鉢

御祭神や祭祀日を記した碑の先には再び歴史を感じさせる手水鉢があります。

茱萸木八幡宮(大阪狭山市)
鳥居

「八幡宮」の額が掲げられた白木の鳥居の先は少し石段があり、まだ新しい感じの狛犬と石灯籠が一対ずつ並んでいます。

茱萸木八幡宮(大阪狭山市)
二つの社殿

石段を上ると拝所となっており、通常はここまでしか進めません。

その先には一間社流造の社殿が二つあり、それぞれの前に旧社地で使われていたと思しき石灯籠が建っています。どの社殿どの御祭神が祀られているかは不明です。

茱萸木八幡宮(大阪狭山市)
拝所から南を望む

ここで振り返ると、狛犬が平成8年(1996年)1月に、鳥居が令和元年(2019年)11月に奉納されたものだとわかります。

周辺は綺麗に手入れされており、門松など美しい正月飾りもされていることから、今も地域の人々から大切にされている神社であると感じられます。

茱萸木八幡宮(大阪狭山市)
補陀落山正法寺

なお、茱萸木八幡宮の西側、公民館の建物の北側には正法寺のお堂、江戸時代の手水鉢や灯籠といった石造物、そして茱萸木地区の墓地があります。

また、公民館敷地の東側、西高野街道付近には茱萸木北遺跡があり、近世後期の遺構なども見つかっています。

神社周辺

旧茱萸木新田の村域には、西高野街道に沿うように大師堂や地蔵堂、さらには石碑など様々な歴史スポットがあります。

茱萸木八幡宮(大阪狭山市)
延命地蔵尊

茱萸木八幡宮の旧社地は現在の大阪狭山市大野台1丁目東端にある自治会館周辺と思われます。かつての神社の跡を感じさせるものは残っていないようですが、延命地蔵尊の祠が建っています。なお、江戸時代の絵図を見ると西高野街道から西の丘陵地へ向けて150mから200mほどの参道があったようです。

茱萸木八幡宮(大阪狭山市)
賽の神

また、現在の茱萸木八幡宮から約150m南西にある大野台第1公園には、こちらも再建された賽の神が祀られています。この場所はかつて峠だったようで、西山新田との境もこの辺りだったようです。

祠の横には昭和63年(1988年)4月10日に設置された茱萸木地区会と八幡宮保存会による由緒記がありますが、それによると、こちらの賽の神は縁結び、安産、子供の守り神として村人から崇拝されていましたが、昭和40年代から始まった狭山ニュータウン開発時に山が崩され鎮座地が無くなったようです。その後、様々な要望などにより再びこの地に祀られるようになりましたが、その再建時には奈良県桜井市三輪にある大神神社(おおみわじんじゃ)から三輪明神を勧請し、合祀されたようです。

アクセス

国道310号「茱萸木南」交差点から陶器山通りを西に進み、約140m先の信号のある「茱萸木公民館前」交差点を右折し西高野街道に入ります。西高野街道を北に30mほど進み左側に石灯籠と石碑のある交差点を左折し、さらに30mほど西に進むと右手に公民館があります。

公民館前が駐車スペースですが一般参拝者は駐車できないと思われます。西側の狭山ニュータウン内などにコインパーキングがあります。

茱萸木八幡宮(大阪狭山市)
西高野街道沿いの燈篭

公共交通機関では、大阪狭山市内の駅などから乗車できる市のコミュニティバス(さやりんバス)を利用し「西山台二丁目南」バス停で下車。陶器山通りを東に300m少々進み左折、さらに40mほど北に歩くと右前方に公民館があります。

Kuminoki-hachimangu Shrine(Osakasayama City,Osaka Prefecture)


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