持尾城跡
2022年3月訪問
持尾城(もちおじょう)跡は大阪府南河内郡河南町持尾にある城跡です。大楠公こと楠木正成がかつて活躍した大阪の南東部、南河内地域に多数築かれた山城の一つで、2kmほど東には河内国(現大阪府東部)と大和国(現奈良県)の国境があります。
持尾城跡(南河内郡河南町) |
また、持尾城跡の西側には眞念寺(真念寺)という小さな寺院がありますが、境内には興味深い石造物があります。
歴史と概要
持尾城は、鎌倉時代の末期に楠木正成によって築かれたと伝えられています。鎌倉時代の末期、第96代後醍醐天皇の呼び掛けに応じて挙兵した楠木正成は、鎌倉幕府軍を迎え撃つために現在の南河内郡千早赤阪村から富田林市、河内長野市にかけて「楠木七城(河内七城)」と呼ばれる城砦群を築いたとされます。その中の赤坂城(上赤坂城と下赤坂城。赤阪城とも)の支城の一つがこの持尾城で、鎌倉幕府滅亡の前年である元弘2年(北朝の正慶元年。1332年)に築城されともいわれています。
ちなみに、楠木七城とは、千早赤阪村の千早城、下赤坂城、小根田城(上赤坂城の一部)、桐山城(上赤坂城の一部)、河内長野市の烏帽子形城、富田林市の龍泉寺城(嶽山城)、金胎寺城とされています。
持尾城があったとされるのは、持尾集落の東側に位置する標高336mの茶臼山、あるいは城ヶ塚(城が塚)と呼ばれる小山の山頂周辺です。この山頂付近は河内平野を一望できる景勝の地であるだけでなく、平石峠を越えて大和から河内に侵入する敵軍の様子もよく見えたようで、持尾城の規模から考えて“城”というより砦や狼煙台としての役割を果たしていたのではないかと考えられています。
この持尾と北隣の平石はもともと一つの村だったようですが、鎌倉時代末期に起こった元弘の変(元弘の乱の一部)当時は当地の豪族である平岩氏が治めていたようです。
平岩茂直(ひらいわしげなお)は、楠木正成の挙兵に応じて平石に平石城を築きましたが、この持尾城も正成の命で平岩氏が築いたのかもしれません。元弘元年(1331年)、赤坂城攻略にむかう関東軍(鎌倉幕府軍)は、大和から平石峠を越えて河内に進入。茂直はこの平石城に拠って防戦し戦死した、と平石城の説明板にあります。
平石峠を抜けて河内に入ると道は谷に沿って西に向かいますが、その北側に平石城、南側に持尾城があり、いずれも平岩氏の軍勢が立て籠もり、連携して河内への進入を防いでいたと思われます。
説明板 |
現在の持尾城跡は、中世の城郭跡ということで石垣などは見られませんが、当時の城塞の跡をよく残しており、地の利を活かし山頂や稜線を平らにして逆茂木(さかもぎ)を並べた中世の城塞跡を留めています。
なお、持尾城跡には登り口に立てられた河南町教育委員会による「塞の遺構 持尾城跡」という説明板の他に、山頂に「河内ふるさとのみち」の説明板が設置されていますが、こちらはかなり色褪せて読みづらいという現状です(特に右側の「千早城要塞要図」)。
城跡の現状
持尾城跡を訪れる際は持尾磐船神社を参拝される方も多いと思いますが、城跡への登り口と神社の入口はほぼ向かい合う位置にあります。
持尾城跡の登り口 |
神社の方は短い石段を上ると境内でしたが、城跡への登り道は登山道のような雰囲気です。
登り口の説明板 |
登り口の右手に「塞の遺構 持尾城跡」と書かれた説明板があります。
登り道の階段 |
城跡への登り道は階段状に整備されており、特に難所はありません。
頂上手前の風景 |
神社前の登り口から数十メートルで頂上に到着します。
頂上付近 |
頂上付近まで来ると視界が開け、四阿と説明板、いくつかの石碑などがあることがわかります。
「持尾城址」の碑 |
「持尾城址」の石標と説明板が並んでいますが、説明板の文字や地図は薄れています。
この城址碑の裏面には、楠木正成が菊水旗と共に掲げたとされる法諺(ほうげん。法律に関する格言やことわざ)「非理法権天(ひりほうけんてん)」について記されています。
謎の石碑 |
この他、山頂付近には「花園」?と彫られた石碑と、「加賀徹也 1957-1986 ∞」と刻まれた墓標のような石碑もあります。
展望台の四阿 |
四阿では大阪平野の景色を眺めながら休憩出来ます。
南西を望む |
現在、山頂周辺には木が生い茂っているので全周囲を望むことは出来ませんが、おおよそ西から北にかけて視界が開けています。
南西方向にはさくら坂の住宅地の向こうやや右手に楠木七城のあった嶽山、金胎寺山が見え、少し左のさくら坂の奥が現在の河内長野市方面で烏帽子形城などがありました。さらに左に視線を移すと現在の千早赤阪村方面で、かつては上下赤坂城が望めた可能性があります。
西北西を望む |
西から北西にかけては大阪平野が一望出来ます。晴れた日には大阪湾や淡路島、六甲方面も見えると思われます。ちなみに、写真中央やや右寄りには、富田林市にある「PLの塔(超宗派万国戦争犠牲者慰霊大平和祈念塔)」が写っています。
北北東?を望む |
北側に視線を向けると、かなり山々が接近しているのがわかります。大和国との境である平石峠は持尾城の2km少々北東にありますが、峠から河内の平野部に抜ける谷筋の道は城の1kmほど北を通っていたと思われます。なお、平石城は北北西に約1.3kmの距離にありました。
眞念寺
持尾城跡から磐船神社前の登り口まで戻り、往路とは逆に西側に下山する道を進み真念寺に向かいます。
真念寺へは右に |
神社前から西側に70~80mほど下ると、下の集落から真念寺に向かう道に合流しますので、右に進みます。
真念寺 |
ほどなく、道路の左手に真念寺のお堂が見えて来ます。
本堂 |
大正時代に出版された郷土史の研究によると、南河内郡河内村大字持尾の真念寺は融通念仏宗の寺院で、当時の檀家総数は80戸となっています。現在は本堂のみで住職などもおられないようです。
この本堂では平成元年(1989年)9月25日に落慶法要が営まれています。
多数の石造物 |
本堂前は平坦な広場(境内)になっていますが、もしかするとかつて曲輪など城の一部だったのかもしれません。その境内の隅に多数の石造物が並べられていますが、これらが元来この場所にあったかは不明です。
「天文の古碑」の説明板 |
数ある石造物の中でも河南町教育委員会の説明板が設置されているのが「天文の古碑」です。ただし、説明板と古碑は結構離れています。
最も大きな「紀念碑」から二つほど右にあるのが「天文の古碑」です。こちらは阿弥陀如来の浮彫で、像の右に「為六西念仏二十一人逆修」、左に「天文廿三年十一月廿八日」と刻まれています。天文23年(1554年。甲寅)とは室町時代の後期です。
説明板には「二十一人衆が生きながら入仏の行をした記念の碑か、あるいは若くして去った人びとを追善する供養の碑か、いわくありげである。中世の石刻文として貴重である。」と記されています。
半分ほどが無縫塔 |
「紀念碑」 |
ひと際大きなものが「紀念碑」です。
「紀念碑」の碑文 |
こちらは「明治二十九丙申年五月」、つまり1896年5月に建てられた碑で、裏面にびっしりと文字が刻まれています。内容は凡そ持尾村、平石村の歴史のようで、大和国を含めた周辺の村々との関係についても刻まれているように見えます。
「左 浄蓮寺」の道標 |
また、一連の石造物の最も左手には「左 浄蓮寺」の道標がありますが、こちらも元々ここにあったかは不明です。
前出の郷土史の研究によると、浄蓮寺も大字持尾にあった真言宗の寺院でしたが大正時代には既に廃寺となっていたようです。言い伝えによると、浄蓮寺は弘法大師を開基とする寺院で、北隣の平石り平岩氏と関係が深かったともいわれる寶珠山(宝珠山)善成寺の燈爐堂(灯篭堂)であったとされ、役行者作と伝わる大日如来を本尊としていたそうです。明治8年(1875年)頃までは大日堂と呼ばれるささやかなお堂が残っていたようです。
アクセス
一般的に、登山コース以外で持尾城跡や持尾磐船神社を目指す場合は、持尾展望台から向かうことになると思われます。展望台から城跡・神社までの道のりは持尾磐船神社の記事に詳細を記載しています。
「持尾城址入口」の石標 |
●持尾磐船神社の記事はこちら →持尾磐船神社(南河内郡河南町) ・平石の栂の宮から分祀された持尾の鎮守
磐船神社(左)と持尾城跡(右) |
上記のルートの場合、城跡登り口や神社入口へは北東側から坂道を上って来ることになりますが、真念寺に向かう場合は城跡、神社前から逆の西側に向かいます。少し下ると分岐があるので右に進むとすぐに本堂が見えてきます。なお、分岐を左に下ると持尾集落南部の地蔵尊前に出ますので、そこから150mほど北に向かうと持尾ちびっこ広場や地区集落センターがあります。
持尾城跡への車での見学は不可能ではありませんが、グリーンロードからはほぼ坂道でカーブや道幅が狭い箇所も多いため基本的におすすめ出来ません。
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