塚穴古墳(河内長野市) ・道路わきに佇む興味深い伝説の残る珍しい形の古墳

塚穴古墳

2017年2月訪問 
塚穴古墳(つかあなこふん)は大阪府河内長野市上原西町(うわはらにしまち)にある古墳です。近くには現代の河内長野市の大動脈である国道170号(外環状線)と国道371号が交わる「上原町」(うわはらちょう)交差点があり、周辺には近年、飲食店や商業施設が続々と進出しています。

塚穴古墳(河内長野市)
独特の外見の塚穴古墳(河内長野市)

国道と飲食店の駐車場との間の一角に佇む小高い山のように見えるのが塚穴古墳です。意識していなければ見落としてしまいそうなこちらの古墳には少し変わった言い伝えがあるようです。

●令和4年(2022年)訪問時の写真はこちら




歴史と概要

大阪の南東部、南河内地域には多数の巨大前方後円墳を擁する古市古墳群をはじめ多くの古墳が造られましたが、この塚穴古墳が造られたのも、それらと同じ古墳時代のようです。この周辺には沢山の古墳が造られましたが、塚穴古墳のある現在の河内長野エリアは中世頃から開墾が進み、古墳はどんどん破壊されていったので、河内長野市に現存する古墳はこの塚穴古墳以外には烏帽子形城跡烏帽子形八幡神社と同じ烏帽子形山にある烏帽子形古墳(河内長野市喜多町)などかなり少なくなっています。

塚穴古墳(河内長野市)
古墳前にある説明版

被葬者は不明ですが、飛鳥時代の皇族で用明天皇の孫にあたる高向王(たかむくのおおきみ)の陵墓とする説があります。高向王は宝皇女(寶女王。たからのひめみこ)、つまり後の第35代皇極天皇(重祚して第37代斉明天皇)の最初の夫で、漢皇子(あやのみこ)の父に当たる人物とされ、蘇我氏との関係が深かったことが指摘されています。

当地はかつて河内国錦部郡上原村でしたが、さらに昔は高向庄と呼ばれた地域に属し、蘇我氏の末裔である豪族、高向氏(たかむくうじ)が治めていたとされます。なお、隣接する河内国錦部郡高向村(現河内長野市高向(たこう))の名前の由来とされる飛鳥時代の学者、高向玄理(たかむくのくろまろ)の系譜は高向史氏で、旧姓は漢人であり、別の一族とされます。

大正時代に刊行された大阪府全志の大字上原の項目には、南西の街道沿いに「塚元」と呼ばれる円形の石墳があると記されています。


一般的にイメージされる古墳とはかなり異なった外観のように思える塚穴古墳ですが、これは一旦古墳が壊された後に石室などが再構築されていることが原因です(後述)。このため、現状は直径約15mの円墳のように見えますが、築造時の本来の墳形など不明な点の多い古墳でもあります。

昭和41年(1966年)、河内長野市教育委員会により発掘調査が行われ、石室内部から人の火葬骨が入った甕が出土した他、石室の床面には長方形に加工された花崗岩が使用され、盛り土の中に江戸時代の瓦が混じっていることが判明しました。さらに、土器や陶磁器に混じって永楽通宝や寛永通宝といった中世、近世の銅銭も出土し、古墳周辺の宝篋印塔などの石造物に刻まれた年号なども調査した結果、古墳の石室は江戸時代に組み直された後、墓地に転用されたと考えられています。


ちなみに、同じ南河内の大阪府羽曳野市はびきのには、古市古墳群を構成する古墳の一つであり、宮内庁により「埴生崗上墓(はにゅうのおかのえのはか)」として第31代用明天皇皇子である来目皇子の墓に治定されている塚穴古墳もあります。


祟り伝説?

河内長野市において現在まで残る貴重な古墳の一つがこの塚穴古墳ですが、この形になった理由として、地元の伝承では「豊臣秀吉が大坂城を築く際にこの古墳を壊し、楔(くさび)を入れて石材を利用しようとしたところ疫病がはやったので、人々は恐れをなして石室を元に戻した」といわれています。

この言い伝えを裏付けるように、現在外から確認出来る石室の組み方などが一般的な古墳とは異なる印象があり、実際に石室内の石材には石を割るための楔の痕が確認出来ます。


古墳の現状

現在、この塚穴古墳の東側に国道170号線の旧道(巡礼街道)、さらにその東に国道170号のバイパス(外環状線)が走っており、それら国道のある東側に向けて石室の入口が開口していますが、中は土で埋められていて見えません。

塚穴古墳(河内長野市)
右が国道170号線の旧道

また、石室の石の積み方も一般的に知られている古墳の石室とは何か違う印象を受け、よく見るとその石には割るために付けられた楔(くさび)の痕も見られます。さらに古墳の頂上には仏式のような石塔まで立っています。

塚穴古墳(河内長野市)
石材に楔の痕が見えます。

発掘調査では、石室内部の土の下から甕(かめ)が4基見つかり、その内3基から成人の火葬骨が見つかったそうです。その他にも五輪石や一石宝篋印塔、土器、陶磁器、永楽通宝や寛永通宝等の銅銭が出土したことなどから、この古墳は一度壊してから元の場所で組みなおされ、江戸時代には墓地として利用されていたことが判明しています。

塚穴古墳周辺の石造物としては、宝篋印塔や三十三度巡礼供養碑、「慶長十四年」(1609年)の銘のある板碑、地蔵座像、役行者像、賽の神(道祖神)の祠などで、墳頂部にある層塔は、現在「十一層」ですが、もともとは「十三層石塔」であったと思われます。

現在は国道と飲食店との間に小さな公園のように整備されていて見学出来ます。


なお、当古墳から500m少々北の同じ旧上原村内にはかつて古墳と西山神社があり、古墳は第14代仲哀天皇の陵との伝説がありましたが(仲哀天皇陵は藤井寺市にあります)後にこちらが高向王の墓とも言われました。一方の西山神社は明治時代に西代神社(河内長野市西代町)に合祀され、現在は古墳、神社跡とも民間の畑などになっているようです。

また、塚穴古墳の1kmほど北には住吉神社が、1km少々南には高向神社があります。


アクセス

南海高野線・近鉄長野線「河内長野」駅、または泉北高速鉄道「光明池」駅などから出ている南海バスに乗り「上原口」バス停下車。国道170号(旧道)をパチンコ店を左に見ながら南西に約300m進み、信号を渡り少し行くと右にあります。

車で行く場合は国道170号線(外環状線)の河内長野市の「上原町」交差点を目指します。大阪市内、富田林方面からは右折、泉佐野、岸和田方面からは左折、国道371号線(バイパス)橋本方面からは直進し、次の交差点(国道170号線の旧道)を左折して約30m進んだ右側に塚穴古墳がありますが、見学者用の駐車場がないので周辺で探す必要があります。

Tsukaana Tumulus(Kawachinagano City,Osaka Prefecture)


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