弘川寺
2019年3月訪問
弘川寺(ひろかわでら)は、大阪府南河内郡河南町弘川にある寺院で、山号は竜池山。京都市伏見区にある醍醐寺を総本山とする真言宗醍醐派の準別格本山で、当寺の本尊は薬師如来です。大和葛城山の西麓に建つ弘川寺は、春の桜、秋の紅葉などが美しく「大阪みどりの百選」にも選ばれています。●桜の季節の弘川寺の記事はこちら →【南河内探訪】弘川寺の桜(河南町) ・サクラを楽しみ歴史を感じる古刹
弘川寺(南河内郡河南町) |
数多くの歴史上の人物にゆかりのある古刹ですが、何より西行法師終焉の地として広く知られており、境内には西行法師の墓所や西行記念館もあることから南河内地域でも人気の観光地の一つとなっています。
歴史と概要
寺伝によると、弘川寺は天智天皇4年(665年)に修験道の開祖ともいわれる役小角(役行者)によって創建され、葛城六坊の一つと伝えられています。天武天皇5年(676年)には勅命によりこの寺で請雨を祈ったところ祈りが通じたため、龍池山弘川寺の寺号を賜り勅願時となりました。天平9年(737年)には行基が修行し、弘仁3年(812年)には嵯峨天皇の命により空海(弘法大師)が伽藍を一新し中興したと伝えられています。
史跡弘川寺境内の説明板 |
西行法師(元永元年(1118年)~文治6年(1190年)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての僧侶、歌人として有名ですが、もともとは藤原秀郷の9世孫で俗名を佐藤義清(さとうのりきよ)と名乗る武士でした。鳥羽院の北面武士(ほくめんのぶし=院の直属軍)としても奉仕していましたが、保延6年(1140年)に23歳で出家。法号を円位とし、後に西行とも称しました。
弘川寺説明板 |
出家後の西行法師は諸国を旅し、多くの和歌を残しました。漂泊の歌人といわれる西行法師の歌で有名なものの一つに「嘆けとて 月やはものを 思はする かこち顔なる わが涙かな」という小倉百人一首に選ばれたものがあります。
河内国石川郡の弘川寺の座主であった空寂(くうじゃく)上人を慕っていた西行法師は、文治5年(1189年)に当寺に来山し庵居。翌文治6年(1190年)にこの地で入寂しました。かつて詠んだ「願はくは 花の下にて 春死なん そのきさらぎの 望月のころ」という歌の通りに生涯を閉じた西行法師の生き方に、人々は感動や共感を覚えました。
それに先立つ文治4年(1188年)には空寂が後鳥羽天皇の病気平癒を祈願し回復されたという功績により、奥の院として善成寺が建てられるなど弘川寺は全盛期を迎えることとなります。
弘川寺の看板 |
南北朝時代になるとこの近辺は楠木氏の戦場となります。さらに、寛正4年(1463年)には、河内国守護の畠山政長が弘川寺に本陣を置いて畠山義就が立て籠もる嶽山城を攻めましたが、逆に本陣である当寺を攻撃されて善成寺もろとも伽藍は焼失しました。その後弘川寺のみ復興し、江戸時代には西行法師を慕う歌僧似雲法師が当寺を訪れ、境内にその墳墓を発見。西行堂を建立した後、自らもここに眠ることとなりました。
現在、弘川寺境内は大阪府の史跡に指定されており、本坊の奥(西側)には西行直筆といわれる掛け軸をはじめ、西行像や西行法師にまつわる絵画、書、資料などを展示している「西行記念館」があります。
境内
境内の地図や詳しい案内はパンフレットに記載されていました。弘川寺には複数の駐車場がありますが、最も下の駐車場から近道するといきなり本坊と資料館の前に出てしまうので、下から2番目の駐車場前の道が正式な参道のようです。
境内入口 |
2番目の駐車場の前には「史跡 弘川寺境内」と彫られた石碑や由緒書き、説明板などがあり、石垣の中央に石段があります。
正面から見た本堂 |
かつては壁や山門があったことを想像しつつ石段を上ると、正面に本堂、そして左右に幾つかのお堂や鐘楼があります。
秋の本堂(2020年11月) |
こちらの本堂に御本尊の薬師如来坐像が祀られています。
手水鉢のような石 |
石段を上って右側には、かつて手水舎があったのでしょうか、変わった形の大きな水盤のような石が遺されています。
地蔵堂 |
水盤の奥には地蔵堂があります。
御影堂 |
地蔵堂の左隣に建っているお堂が御影堂で、弘川寺を中興した弘法大師の像を祀っています。
三鈷の松 |
御影堂の手前には高野山にあることでも有名な、三つに分かれた葉が特徴の「三鈷の松」があります。
三つに分かれた葉 |
高野山の三鈷の松といえば、唐に仏教を学びに行った弘法大師が、修業を終え日本に帰国する前に真言密教の道場を開く場所はどこが良いのかを占うために三鈷杵(さんこしょ)という密教法具の一つを日本に向けて投げ、帰国した弘法大師が高野山に生える松の木に引っかかっているのを見つけたことから高野山に道場を開くことにした。という言い伝えがあります。
それ以来、三鈷杵にちなんで三鈷の松と呼ばれるようになったといわれ、お守りとして持ち帰る方も多いようです。三鈷の松は各地にありますが、南河内では他に藤井寺市の葛井寺にもあり、こちらは「旗掛けの松」とも呼ばれています。
鳥居 |
御影堂と三鈷の松の左手(本堂より)には石の鳥居があり、階段の上の方にお社が見えています。
鎮守堂前の歌碑 |
このお社は弘川寺の鎮守堂(鎮守社)で、当寺の守護神である八所権現を祀っています。立派な二段の石垣の上にはこの鎮守堂だけが鎮座していますが、かつてはこの場所にもっと大きな建物があったと思われます。
鎮守堂 |
お社は弘川寺で最も古い桃山時代の建物です。注連縄や紙垂、お供えは見られませんでした。
鐘楼堂(左)と護摩堂(右) |
今度は本堂に向かって左手に目を移すと、入口側から鐘楼堂、護摩堂と並んでいて、護摩堂の右手(本堂との間)には本坊や西行記念館へ続く道があります。
鐘楼堂の鐘 |
鐘楼堂には立派な鐘が吊り下げられています。
隅屋桜の説明板 |
鐘楼堂と護摩堂の前には1本の枝垂れ桜があり、その側に「隅屋桜(すやざくら)」の説明板があります。それによると、「河内鑑名所記」や「河内名所図会」に「すや桜」や「規桜(ぶんまわしざくら)」という名称が登場し、南朝の忠臣で弘川城主であった隅屋与市正高が弘川寺にて奮戦し、規桜の下で討死したという記述があるそうです。規桜は絶えてしまいましたが「すや桜」は今もこの地にその名を留めています。
護摩堂の内部 |
護摩堂には不動明王、役行者、そして河内飛鳥霊場七福神の大黒天などが祀られているようです。
本堂 |
河内国守護畠山氏の内紛による戦火で寛正4年(1463年)に弘川寺と善成寺を全焼しましたが、天武天皇勅願の本尊薬師如来坐像をはじめ弘法大師像などは無事でした。それから約500年後に弘川寺本堂は再建され、美しい姿を今に留めています。現在も本堂には薬師如来像が祀られています。
その本堂の右手には、西行堂や西行墳、そしてその上の西行桜山へと続く上り坂があります。
西行堂 |
少し坂を登ると見えてくるのが西行堂です。江戸時代、西行法師を慕い「今西行」と呼ばれていた安芸国(現在の広島県)出身の歌僧似雲法師は、ついにこの地に西行塚を見つけ、西行堂を建立しました。堂内には西行座像を祀っています。
西行墳 |
西行堂からさらに山道を登ると、木々に囲まれた広場のような場所に出ます。その右手を見ると、小高い塚になっている西行法師の墓所「西行墳」があります。
似雲墳 |
また、広場の反対側(山側)には西行墳と向かい合うように「似雲墳」があります。似雲法師は西行堂を建立しただけでなく、西行墳周辺に千本桜を植えたといわれています。
本堂から本坊への道 |
本堂前まで戻り、護摩堂の横から西行記念館のある本坊へ向かいます。
紅葉谷へ |
その途中には秋に美しい紅葉が見られる紅葉谷への入口があります。
見事な紅葉(2020年11月) |
紅葉谷と呼ばれるだけあって、秋には見事な紅葉を鑑賞できます。
弘川寺本坊 |
本坊は本堂の西側、弘川の集落の方に下ったところにあり、門の前の階段を下ると一番下の駐車場です。
弘川寺本坊の門 |
本坊の中にあり、西行法師にまつわる数多くの資料が展示されている西行資料館は春と秋の一定期間だけ見学が可能です。また、本坊庭園内には樹齢350年余の海棠(かいどう=バラ科の一種)があり、府指定の天然記念物に指定されています。本坊庭園と記念館のみ有料。
さくら坂住宅から見た弘川寺の桜(2018年3月) |
弘川寺周辺には1000本とも1500本ともいわれる桜が植えられており、満開になると吉野山の様でもあります。
切り株と若木(2020年11月) |
アクセス
公共交通機関では、近鉄長野線「富田林」駅より金剛バスで「河内」バス停下車。バス停から70mほど戻る(下る)と「弘川寺」の看板があるので矢印の方向に右折。150mほど坂道を上り左に折れると境内入口が見えてきます。府道200号から弘川寺への入口 |
車で行く場合、ワールド牧場を目指し、そこからさくら坂住宅を越えて弘川寺を目指します。
最も迷いにくいと思われるのは、国道309号でスーパーセンターオークワ河南店前の「石塚」交差点を、大阪市内・富田林方面からは左折、奈良方面からは右折し、250m先の丁字路を左折します。そこから1kmほど北に進み「白木南」交差点を右折。さらに1km先の信号(ワールド牧場入口の先)を右折し、さくら坂住宅方面への坂を上ります。道なりに約2km進み坂を下った先の突き当たりを右に入り、200m先の弘川寺の看板がある交差点を左折すると駐車場入口が見えてきます。
最も下の駐車場 |
駐車場は一番下の広い駐車場以外にも、少し上の境内入口前、さらに上にも2ヶ所あり、全て無料となっています。
3番目・4番目の駐車場入口 |
ただし、桜や紅葉のシーズンの混雑時には交通が規制されることもあるようです。
周辺には、2.5kmほど南西に建水分神社、3kmほど西に鴨習太神社、4kmほど北西に壹須何(一須賀)神社といった歴史ある神社(式内社)が、2kmほど西には双円墳で有名な金山古墳があります。また、北の持尾地区には持尾展望台の他、持尾磐船神社や持尾城跡、さらに北の平石地区には高貴寺や磐船大神社があります。
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