敏達天皇陵
2019年6月訪問
敏達天皇陵(びだつてんのうりょう)は、大阪府南河内郡太子町太子にある前方後円墳です。宮内庁により「河内磯長中尾陵(こうちのしながのなかのおのみささぎ)」および「磯長原陵(しながのはらのみささぎ)」として、第30代敏達天皇および石姫皇女(いしひめのひめみこ・欽明天皇皇后で敏達天皇の母)の合葬陵に治定されています。また、考古学的な遺跡名としては太子西山古墳(たいしにしやまこふん)、または奥城古墳(おくつきこふん)と呼ばれています。敏達天皇陵(南河内郡太子町) |
多くの天皇陵を有し、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産に登録された百舌鳥・古市古墳群からは離れた二上山の麓にある古墳ですが、複数の天皇陵を含む磯長谷古墳群(しながだにこふんぐん)を構成する古墳の1つです。
歴史と概要
敏達天皇陵(太子西山古墳)が築造されたのは、出土した埴輪などから古墳時代後期の前半頃と推定されています。古墳の形としては前方部を北西に向けた前方後円形で、墳丘は2段築成となっており、周囲には空壕が巡らされています。敏達天皇陵の大きさとしては、墳丘長約113m、前方部幅約67m・高さ約12m、後円部直系約58m・高さ約10.9m、周濠を含む総長は約128mとされています(資料により違いあり)。実際の被葬者は明らかでないものの、宮内庁により第30代敏達天皇、および母の石姫皇女の陵に治定されているので本格的な調査はされていません。それでも、墳丘周辺では埴輪片が採集されており、内部は横穴式石室が採用されていると考えられています。また、敏達天皇は後に9kmほど北西にある河内大塚山古墳に改葬されたとする説もあるようです。
「近つ飛鳥の里太子探訪」の地図 |
敏達天皇陵は、現在の太子町の中心地域と石川右岸(東岸)の平地とを隔てる丘陵上にあり、100m少々南は河南町で、大阪芸術大学の敷地となっています。
磯長谷(科長とも)は竹内峠付近から上ノ太子駅方面を経て石川に流れる飛鳥川の谷で、この辺りではほぼ飛鳥川に沿って竹内街道が通っています。磯長谷ではこの敏達天皇陵のほか、用明・推古・孝徳各天皇陵と聖徳太子墓の5つの天皇・皇族の陵墓がありますが、これらは梅の花びらになぞらえて「梅鉢御陵」と総称されるほか、「王陵の谷」とも呼ばれています。
ちなみに、敏達天皇陵は磯長谷で造られた最初の天皇陵で、唯一の前方後円墳ですが、天皇陵としては最後の前方後円墳かつ、埴輪列を有する最後の御陵ともいわれています。
敏達天皇
敏達天皇は第29代欽明天皇の第二皇子で、母親は第28代宣化天皇の皇女・石姫皇女。正確な生没年は不祥ですが、宣化天皇3年?(538年)~敏達天皇14年(585年?)との説があります。和風諡号は渟中倉太珠敷尊(ぬなくらふとたましきのみこと)で、他田(訳語田)天皇(おさだのおおきみ)との別名も。敏達天皇4年(575年?)に息長真手王(おきながのまてのおおきみ)の娘である広姫を皇后としましたが、広姫は同年中に亡くなります。翌年、16歳年下と言われる異母妹の額田部皇女を改めて皇后としましたが、実は欽明天皇32年(571年?)には既に額田部皇女は敏達天皇の妃となっていたそうで、なぜ皇女である額田部皇女ではなく、皇女ではない広姫が当初皇后となったのかは不明です。ちなみに、額田部皇女は後に第33代推古天皇となります。
敏達天皇の最初の皇居は、百済大井宮(くだらのおおいのみや)とされますが、大阪府河内長野市太井や奈良県北葛城郡広陵町百済、大阪府富田林市甲田、奈良県桜井市など諸説あるそうです。敏達天皇4年(575年?)、卜占の結果に従い、訳語田幸玉宮(おさたのさきたまのみや)へ遷都しましたが、これは現在の奈良県桜井市戒重付近と考えられています。
この時代は、仏教受容を巡り蘇我馬子と物部守屋との崇仏論争がありましたが、敏達天皇は廃仏派寄りであったとされます。外交では新羅に滅ぼされた任那(みまな)復興を目して百済と協議していましたが、あまり進展は見られなかったようです。また、世界最古の企業とされる金剛組(宮大工の集団)発足したのが敏達天皇の御代だったと伝わっています。
古墳の現状
近鉄の喜志駅から東に進み太子町役場などに向かう道はかなり古く、道沿いには叡福寺や西方院といった寺院の他に、用明天皇陵などへの入口もあります。この道に架かる太井川橋の西詰には敏達天皇陵への正式な?参詣道を示す古い石碑(道標)があります。敏達天皇御陵案内の石碑 |
この道標には「右 敏達天皇御陵へ四町 左 聖徳太子 用明天皇御陵」とありますが、4町とは約436mで、この位置から敏達天皇陵の入口までは6町(約654m)ほどあり計算が合わないので、もともとこの道標は少し上流に架かる尻谷橋付近にあったのかもしれません。
現在の道標の位置から南に進み、和菓子店(好月堂さん)の前を過ぎると現在の道路は川沿いに左へカーブしていますが、敏達天皇陵へは直進して坂を上ります。
跨道橋(新伽山橋) |
350mほど進み、府道32号美原太子線を越えるため跨道橋(新伽山橋)を渡ります。この辺りの府道32号は敏達天皇陵などのある丘を開削して造られたようです。こちらの跨道橋の名前にある伽山は今の泥掛地蔵の南側の集落の名。
跨道橋付近から御陵方面を望む |
跨道橋から陵の入口までは150mほど真っすぐの道路ですが、その先に拝所への参道が見えています。
敏達天皇陵参道への入口 |
敏達天皇陵の入口に到着。拝所への参道手前には宮内庁管理の御陵の側でよく見る(一般車両進入禁止の)駐車場?があります。
「敏達天皇河内磯長中尾陵道」の石碑 |
この「敏達天皇河内磯長中尾陵道」の碑から拝所までは約150mです。
緩やかな坂を上りきった辺りで少し左にカーブしています。
御陵方面から北北西を望む |
カーブの手前で振り返ると、北北西に真っ直ぐ延びる参道を望めます。
木々の間に見える鳥居 |
再び御陵に向かうと、木立の先に鳥居が見えて来ます。
拝所 |
敏達天皇陵の拝所に到着。
拝所北側より |
拝所は四方を背の高い木々に囲まれた静寂の空間で、敏達天皇陵が丘の上に造られた前方後円墳ということを忘れてしまいそうになりますが、厳かで御陵に相応しい雰囲気を感じ取れます。
拝所周辺で古墳の周濠や全体像を確認できる場所を探しましたが、周りは森や畑、その他私有地のようで立ち入れそうにありませんでした。
アクセス
公共交通機関では、近鉄長野線「喜志」駅から金剛バスを利用し「敏達天皇陵前(旧仏眼寺橋)」バス停下車。少し西の太井川に架かる仏眼寺橋を渡りバス道(府道33号富田林太子線)から左斜め前の少し細い道に入ります。300m弱進み坂を上った左手に敏達天皇陵拝所の入口があります。仏眼寺橋のやや西側より(古墳は左手奥) |
府道32号「上宮学園南」交差点を南に進み、100mほど進んで右折(左手に「近つ飛鳥の里太子探訪」の地図がある交差点)。300m弱進み坂を上った左手に敏達天皇陵拝所の入口があります。なお、敏達天皇陵に駐車場はありません。
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