伴林氏神社
2019年10月訪問
伴林氏神社(ともばやしのうじのじんじゃ)は大阪府藤井寺市林にある神社です。平安時代の「延喜式神名帳」という書物に河内国志紀郡14座のうちの一つとして名前が記載されたいわゆる式内社で、旧社格制度では府社に列格していました。伴林氏神社(藤井寺市) |
静かな住宅街の中に鎮座する神社ですが、その歴史は古く、戦前には「西の靖国神社」とも呼ばれた神社で、今も手入れの行き届いた境内に大変立派な社殿が建っています。
歴史と概要
伴林氏神社の正確な創建年は不明ですが、社伝によると、「三代実録」に清和天皇の貞観9年(867年)2月26日に、河内国志紀郡の「林氏神(はやしうじのかみ)」が官社に列せられたとあることから、平安時代前期にはすでに祀られていたと思われます。御祭神は、いずれも大伴氏と関係の深い主祭神の高皇産霊神(たかむすひのかみ)と、配祀神の道臣命(みちのおみのみこと)と天押日命(あめのおしひのみこと)が祀られています。主祭神である高皇産霊神の5代目の子孫が天押日命であり、さらにその天押日命の3代目の子孫が道臣命で、高皇産霊神は生成の神、大伴氏の遠祖とされる天押日命は守護の神、大伴氏の祖とされる道臣命は道の神として崇拝されています。
神社南側の道路から |
少し変わった「伴林氏神社」という社名については、この地に古くから住んでいた一族がその祖先を祀ったことから来ていると考えられていますが、それが林氏(伴林氏)という大伴氏に連なる一族だったようです。林(古くは拝志とも)は現在の町名としても残っています。なお、富田林市に大伴黒主神社がありますが、こちらの御祭神である大伴黒主は本来「大友」氏で古代豪族の「大伴」氏とは直接関係がないともいわれています。
ちなみに、大伴氏は弘仁14年(823年)に大伴親王が淳和天皇として即位すると、その諱と同姓なのは畏れ多いとして「伴(とも)」に氏を改めています。
古代の大伴氏といえば、物部氏と共に朝廷の軍事を管掌していたと考えられていて、大伴氏は親衛隊的な、物部氏は国軍的な役割を担っていたようです。
由緒碑 |
平安時代の貞観15年(873年)12月20日に河内国正六位上天押日命神に従五位が授けられていますが、これが当社のことなら、もともとの御祭神は天押日命であったとも考えられます。その後の延喜7年(907年)には延喜式神名帳に小社志紀郡伴林氏神社として記載されています。
中世以降の伴林氏神社については詳しいことがわかっていませんが、戦国時代に織田信長の河内攻めの兵火によって消失し、維持管理してきた大伴氏の子孫も断えてしまったようです。その後は、近隣の人々によって再建され、小さなな社殿ながら産土神として祀られて、江戸時代頃は「牛頭天王社」とも呼ばれていました。神仏習合では牛頭天王を素戔嗚尊と同一視しており、明治時代の廃仏毀釈で各地の牛頭天王社は素戔嗚尊を祀る神社になることが多かったのですが、当社は現在の御祭神を祀るようになったようです。
列官社1111年の記念碑(左)と海ゆかばの記念碑(右) |
明治5年(1872年)に村社に列格。昭和7年(1932年)には、軍人勅諭が下賜されて50年を記念した調査によって、伴林氏神社が古代に軍事を司どった大伴氏の祖神である道臣命を祀る珍しい神社であること判明し、「西の靖国神社」と称され注目されるようになりました。その後は当社を再興する機運が高まり、昭和15年(1940年)に新社殿が完成し、遷座が行われましたが、この時、靖国神社からが寄贈された手水舎が今も残っています。翌年に本殿以外の社殿も完成し、昭和17年2月10日に府社に昇格しました。
伴林氏神社の周辺は、明治の初めまで河内国志紀郡林村と呼ばれていましたが、明治22年(1889年)に、澤田村、古室村と合併し新たに澤田村が発足します。澤田村は明治23年(1890年)に志紀郡道明寺村と合併して改めて道明寺村が発足し、明治29年(1896年)には所属郡が南河内郡となります。この当時の当社鎮座地は南河内郡道明寺村大字林字宮山となっています。
その後、道明寺村は昭和26年(1951年)に町制施行して道明寺町となり、昭和34年(1959年)に藤井寺町と合併して藤井寺道明寺町となりました。翌年には町名を美陵町と改称し、昭和41年(1966年)に市制施行して美陵市となりますが即日改称。そして現在の藤井寺市となりました。
祭礼
主な祭礼として、7月の夏祭りと10月の秋祭り(例大祭)があるようですが、この内、秋祭りには地車(だんじり)が出ます。伴林氏神社に宮入するのは、境内にだんじり小屋のある伴林地区のようで、東の林のだんじりは黒田神社に宮入するようです。境内
現在の伴林氏神社の周囲は保育園や田畑が一部あるものの、ほとんどが住宅地となっています。しかし、明治頃の地図を見ると、南に林、澤田、古室の集落がある以外は田畑に囲まれていたようで、国道170号の旧道が出来るまでの主要道で、林集落を東西に横切る長尾街道から北に伸びる参道があったようです。鳥居と参道 |
伴林氏神社は、整然とした玉垣で囲われていて、入口には大きな石の鳥居があり、拝殿に向かって石畳の参道が続いています。鳥居から参道、拝殿と一直線で、拝殿などは南を向いています。現在の敷地の東西は約100m、南北は80m前後といったところです。また、右手にある社号標は近衛文麿公の筆になります。
手水舎 |
鳥居の手前左側に、南河内では他に見られないような立派な手水舎が建っています。
手水鉢 |
この手水舎が、前述の東京の靖国神社から寄贈されたもので、明治4年(1871~1872年)に建立され昭和15年に当社に移築されました。
社務所 |
鳥居をくぐって右手には社務所があります。
家持の顔出しパネルと萬葉神籤 |
社務所では、テレビでも紹介された「萬葉神籤(まんようみくじ)」がありますが、これは
平成29年(2017年)度から登場したジャンボおみくじで、長さは1m近くありそうです。
もう一つの顔出しパネル |
伴林氏神社には、奈良時代の公卿で、歌人(三十六歌仙の一人)としても有名な大伴家持(おおとものやかもち)の顔はめ看板(顔出しパネル)が複数ありますが、家持は当社の御祭神を祖とする大伴氏で、日本最古の和歌集である「万葉集(萬葉集)」の編纂に携わった人物として有名です。
元号「令和」の出典となったのは、万葉集巻五の「梅花謌卅二首并序(梅花の歌 三十二首、并せて序)」にある一文で、これは大宰帥(大宰府の長官)で家持の父でもある大伴旅人によるもです。
拝殿 |
参道を進むと程なくして右近の橘、左近の桜があり、その先に拝殿があります。拝殿へは少し石段を上りますが大変立派な建物です。
拝殿内部 |
拝殿内も広く、御祈祷を受ける方など多くの人を収容できます(無断では入れません)。
右側から見た拝殿 |
拝殿右側には今年の干支を描いた大きな絵馬が飾られ、手前におみくじ掛けもあります。
左側から見た拝殿 |
拝殿左手には絵馬掛けが設置されています。
なお、拝殿の両脇に連なる建物は神饌所と神具所のようです。
境内東側 |
拝殿から右手に境内を進みます。
神宮遥拝所御造営予定御敷地 |
境内の北東隅には、「第六十三回(平成四十五年) 神宮式年遷宮奉賛記念事業 神宮遥拝所 御造営予定 御敷地」の札が建てられ、注連縄で囲まれた一角がありました。20年ごとに行われる伊勢の神宮の式年遷宮ですが、次回行われる「平成45年」は令和15年(2033年)にあたります。
拝殿左手 |
一方、拝殿から左手に進むと、御神木やいくつかの石碑、末社などがあります。
御神木(子供の神様) |
参道から少し西側にある御神木は樹齢約100年のムクの木で、根元に新しい木の芽(クスの木)を宿していることから子授け、子育ての御神木とされているそうです。
「敬神人和」の碑 |
拝殿左手を奥の方まで進むと、「敬神人和」の石標があり、その右側に末社若宮への門があります。
末社若宮 八幡大神 |
末社若宮は八幡大神を祀っているそうですが、柵があるので門の手前で参拝します。
塔心礎 |
神社ホームページによると、伴林氏神社の境内地には7世紀後半の白鳳時代に、林氏によって建立された寺院があったようですが、この寺は現在字名に「寺の山」とあるだけで、当時の様子はもとより、寺の名称も分からないため「拝志(はやし)廃寺」と呼ばれているそうです。現在は、境内参道から西(左)の木々の間に三重、または五重塔の心柱の礎石(塔心礎)が残っています。
境内西側 |
境内西側は所々木々が生えているものの広い空間があります。
だんじり小屋 |
そして西の端には「伴林」地区の地車(だんじり)小屋と駐車場があります。
「株式会社ニチイ」と彫られた石柱 |
なお、こちら西側駐車場の門柱の裏側を見ると、かつて近畿を中心に展開していたスーパーの「株式会社ニチイ」が昭和53年(1978年)10月9日に奉納したもののようで、翌年まで使われた旧タイプのロゴマークも見られます。ニチイはその後マイカルと名を変え、さらにイオンリテールに吸収されています。
西側駐車場 |
神社西側駐車場は立派な出入口がありますが、この時は門扉が閉じられていました。
境内の西側はどことなく広々とした印象を受けますが、これは前述のように昭和の初め頃から「西の靖国神社」として注目され、大伴氏の祖先をまつる伴林氏神社の復興が決定すると、周辺の土地が次々と神社の境内地となっていったことが関係しているようです。神社の敷地が拡大すると、参道へは西から入るようになり、今の鳥居や社号標も西側駐車場入口から100mほど西にありました。つまり、隣の保育園とその西側の集合住宅までが参道でした。
現在の伴林氏神社の境内は2500坪ほどですが、昭和14年(1939年)2月の段階で約12000坪もあったそうです。第二次世界大戦後に境内地は縮小され、平成の初め頃に鳥居なども現在地に移転したようです。
南東の入口 |
反対側の神社東側にも入口があり、南東角には藤井寺市の公共施設循環バス「伴林氏神社前」バス停があります。
●伴林氏神社 公式ホームページ →http://tomobayashiuji-jinja.jp/
●伴林氏神社 Facebook →https://ja-jp.facebook.com/pages/category/Religious-Organization/%E4%BC%B4%E6%9E%97%E6%B0%8F%E7%A5%9E%E7%A4%BE-364906813604336/
神社周辺
伴林氏神社の周辺には、允恭天皇陵をはじめとした古墳や、黒田神社、志貴県主神社、志疑神社といった式内社、さらに国府八幡神社、古室八幡神社、澤田八幡神社、土師ノ里八幡神社、津堂八幡神社などの神社もあります。アクセス
近鉄南大阪線「土師ノ里」駅から改札を出て右(北)に国道170号(旧道)を進み、約300m先のスーパーの角を左折します。あとは道なりに300mほど歩くと右手に伴林氏神社が見えます。藤井寺市の公共施設循環バスでは「伴林氏神社前」バス停が神社南東角にあります。
神社の西にある案内看板 |
車で行く場合は徒歩と同じく国道170号(旧道)から行くか、国道170号(外環状線)の「沢田北」交差点から東に入って突き当りを右折し、100mほど先の青い神社の看板の角を左折します。100mほど進むと左に神社がありますが、一般の参拝の場合駐車場は開放されていないとの情報も。
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