推古天皇陵(南河内郡太子町) ・日本初の女帝の陵は皇子との合葬陵墓

推古天皇陵

2022年2月訪問
推古天皇陵(すいこてんのうりょう)は大阪府南河内郡太子町山田にある方墳で、磯長山田陵(しながのやまだのみささぎ)として、宮内庁により第33代推古天皇の陵に治定されている他、合葬されているとされる第30代敏達天皇と皇后炊屋姫(後の推古天皇)の間に生まれた竹田皇子(たけだのみこ)の墓に治定されています。また、考古学的な遺跡名としては「山田高塚古墳」と呼ばれています(高松古墳とも)。

推古天皇陵(南河内郡太子町)
推古天皇陵(南河内郡太子町)

推古天皇は日本初の女帝であり、甥である聖徳太子を摂政としていたことで知られていますが、推古天皇陵の周辺にはその聖徳太子をはじめ、夫である第30代敏達天皇など皇族の陵墓が複数あります。


歴史と概要

推古天皇陵(山田高塚古墳)は、大阪府の南東部、奈良県との境にある二上山の西麓に伸びる台地状丘陵の西端部に築かれた方墳です。その規模は東西約59m、南北約55m、高さ約11m(東西約63m、南北約56m、高さ約12mとも)で、厳密に正方形ではないことから長方形墳とも呼ばれています。

実際の被葬者は明らかではありませんが、宮内庁により磯長山田陵、および竹田皇子墓として推古天皇・竹田皇子の合葬陵墓に治定されています。天皇陵として宮内庁の管理下にあるものの、同庁書陵部などによる調査が行われています。

墳丘は3段築成で、1段目は正方形に近いものの3段目は東西約34m、南北約25mと東西に長い長方形で、なおかつ3段目は相当な急斜面をなしているそうです。これはもともと1段目も長方形だったものを、江戸時代に行われた大規模な修陵の際に改変されたと考えられています。また、墳丘表面では貼石が認められたものの埴輪は無いとされ、築造時期は6世紀末から7世紀前半頃(古墳時代末期)と考えられています。

当古墳主体部の埋葬施設は調査されていないようですが、東西に長い墳丘の特徴から横穴式石室2基が東西に並び、いずれも南に開口していると推定されています(いずれかの石室内に石棺2基が存在しているとする古書もあるそうです)。ちなみに、推古天皇陵周辺では、約200m南東の二子塚古墳や500mほど西にある葉室塚古墳も1つの墳丘に2つの石室を持つ古墳として知られています。


推古天皇陵から800mほど北には推古天皇の時代に整備された日本最古の官道とされる竹内街道が東西に通り、その側には石川の支流である飛鳥川も流れています。この飛鳥川によって形成された磯長(しなが)谷にはこの推古天皇陵の他、敏達天皇陵用明天皇陵孝徳天皇陵、聖徳太子墓(叡福寺内)の5つの天皇・皇族の陵墓があり、これらは梅の花びらになぞらえて「梅鉢御陵」と呼ばれています。また、これらのことから磯長谷は「王陵の谷」と呼ばれることがあります。

世界遺産に登録された古市古墳群から5kmほど南東の磯長谷には梅鉢御陵を含めて30基ほどの古墳があり、磯長谷古墳群と呼ばれています。


平安時代の私撰歴史書「扶桑略記」によると、康平3年(1060年)に「推古天皇山陵」で盗掘があったと記されています。

江戸時代には当古墳が推古陵として認識されており、享和元年(1801年)に刊行された「河内名所図会」にも「推古天皇陵 山田村の領内にあり」などと紹介されています。

昭和54年(1979年)に境界の石垣設置工事に伴う調査が、平成元年(1989年)に墳丘の表面調査が宮内庁書陵部によって行なわれました。また、平成24年(2012年)2月23日には、日本考古学協会などの考古学、歴史学の研究者団体が用明天皇陵に続いて当古墳を調査し、墳丘南側斜面にて宮内庁の調査で見つかった石室の一部とみられる石材2点が東西に3~4m間隔で埋まっていることなどを確認しています。

推古天皇陵(南河内郡太子町)
「磯長山田陵」「竹田皇子墓」

推古天皇

推古天皇は、第29代欽明天皇を父、大臣の蘇我稲目の娘で馬子の姉である堅塩媛(きたしひめ)を母として欽明天皇15年(554年)に生まれました。第30代敏達天皇は異母兄であり夫でもある他、第31代用明天皇は同母兄、第32代崇峻天皇は異母弟に当たります。諱は額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)で和風諡号は豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと)。

崇峻天皇5年12月8日(593年1月15日)に豊浦宮(とゆらのみや・現奈良県高市郡明日香村豊浦付近にあったと推定)において即位。推古天皇元年4月10日(593年)5月15日に甥である厩戸皇子を皇太子とし(聖徳太子)、以後太子や蘇我馬子を用いて政治を行い、冠位十二階の制定や十七条憲法の発布、小野妹子をはじめとした遣隋使の派遣など、様々な変革をもたらしました。また、仏教の興隆に努める一方で、日本古来の神道の祭祀を重んじる詔も出しています。

推古天皇36年3月7日(628年)4月15日に小墾田宮(おはりだのみや・現奈良県高市郡明日香村?)にて75歳で崩御。なお、「古事記」ではこの推古天皇までを記しています。


古墳の現状

本来の竹内街道と国道166号が分かれる六枚橋付近から300mほど南の太子町交番前交差点からさらに南に進み、丘を越えた先にある推古天皇陵バス停付近まで来ると左前方に田畑の真ん中に佇むこんもりとした森が見えてきます。

推古天皇陵(南河内郡太子町)
北西から見た推古天皇陵

北側から見ると、木々の無い直線的な斜面の丘の上に生垣があり、その上に木々に覆われた墳丘があるように見えます。

推古天皇陵(南河内郡太子町)
西側の斜面

バス停から南に進むと古墳の西側の斜面の下を通って南側に回れます。

推古天皇陵(南河内郡太子町)
拝所入口

古墳の南西まで来ると、拝所入口に立つ「推古天皇磯長山田陵」の石標と上り坂が見えて来ます。

推古天皇陵(南河内郡太子町)
拝所への坂道(奥は二上山方面)

舗装され、綺麗に整えられた拝所への坂道を上りはじめると、周囲には長閑な田園風景が広がっていることがわかります。

推古天皇陵(南河内郡太子町)
梅の合間から見える墳丘

途中には咲き始めの梅も。

推古天皇陵(南河内郡太子町)
参道から見た拝所

拝所への参道の長さは100m弱で、最後に左に折れると目の前に拝所が現れます。

推古天皇陵(南河内郡太子町)
拝所正面より

拝所は石垣の上にあり周囲より数メートル高くなっています。

推古天皇陵(南河内郡太子町)
拝所の鳥居

当古墳は推古天皇と若くして亡くなったとみられる竹田皇子の合葬陵墓とされており、拝所のある南面に開口した横穴式石室が2基並んでいると考えられています。

推古天皇陵(南河内郡太子町)
古墳の南東側

拝所の右手、墳丘の南東側に宮内庁の管理施設のような建物があります。天皇陵ということで当然古墳内に立ち入ることは出来ませんが、その周囲は西側以外ほとんど田畑に隣接しています。

推古天皇陵(南河内郡太子町)
拝所前からの西側の景色(奥にPLの塔)

拝所から参道を下り始めると大阪平野南部の富田林方面が一望出来ます。

推古天皇陵(南河内郡太子町)
二子塚古墳(写真中央)

また、拝所付近から南東に視線を移すと、金剛葛城山地の手前、200mほど先に二子塚古墳があります。

推古天皇陵(南河内郡太子町)
南西の一般道から見た古墳

推古天皇陵は丘陵の先端付近に築かれた古墳ということですが、北側、西側、南側から見ると周囲より高い位置にあることがよくわかります。

推古天皇陵(南河内郡太子町)
二子塚古墳から見た推古天皇陵

拝所前からは200mほど離れた二子塚古墳が見えましたが、二子塚古墳からも推古天皇陵の美しさがよくわかります。


推古天皇陵は丘陵の上にあり周囲はほぼ田畑ということで、どの方角からでも墳丘を確認出来る、梅鉢御陵の中でも最も“古墳を感じられる”陵ともいえます。

周辺には前出の古墳以外にも、約400m北にある仏陀寺境内に蘇我倉山田石川麻呂の墓と伝わる仏陀寺古墳がある他、800mほど東には科長神社小野妹子の墓などもあります。


アクセス

太子町役場の南東にある国道166号と府道32号美原太子線が交わる「太子町交番前」交差点から南に入り、府道33号富田林太子線を道なりに約600m進むと府道は右に折れますがそのまま直進します。さらに200mほど進むと左側に「推古天皇磯長山田陵」と彫られた石標がある推古天皇陵拝所への入口があります。

参拝者用の駐車場は無いようです。

推古天皇陵(南河内郡太子町)
バス停と推古天皇陵(中央奥の森)

公共交通機関では、近鉄南大阪線「上ノ太子」駅、あるいは長野線「喜志」駅から金剛バスに乗車し「推古天皇陵前」(旧御陵前)バス停で下車(同バス停付近からでも古墳が見えます)。300mほど南に歩くと左手に天皇陵拝所への入口があります。

Mausoleum of Emperor Suiko(Taishi Town,Osaka Prefecture)


にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ

コメント