池之原神社
2019年5月訪問
池之原神社(いけのはらじんじゃ)は大阪府大阪狭山市池之原にある神社です。日本最古のダム式ため池である狭山池の西にある小高い丘の上に鎮座するこの神社は、かつての幹線道路である西高野街道を見下ろす位置に建っています。池之原神社(大阪狭山市) |
鬱蒼とした森の中の長い石段の先に神様を祀るこの池之原神社は、同じく狭山池周辺にある狭山神社や狭山池水天宮とは違った、どことなく新しさと古さの両方を感じさせる神社です。
歴史と概要
池之原神社には案内板など見当たらず、正確な創建年や現在の御祭神は不明ですが郷土史などによると、池之原神社の鎮座する宮山には、室町時代の文明18年(1486年)より熊野三所権現(熊野社)が祀られ、当地の産土神となっていたといわれています。大正時代の資料には三都村大字岩室字宮山の熊野神社の御祭神は伊弉奈美命とするものも。主祭神が熊野三所権現とすると、熊野三社の主祭神である、本宮の家都御子神(けつみこのかみ)、新宮の熊野速玉(はやたま)神、那智の熊野夫須美神(くまのふすみのかみ)の三神となりますが、これらはそれぞれ、須佐之男命、伊邪那岐命、伊邪那美命と同一視されています。熊野権現については松原市の十二社権現宮や兵庫県尼崎市の杭瀬熊野神社の記事でも触れています。
明治40年(1907年)12月23日、池之原(当時の南河内郡三都村大字岩室字宮山)で祀っていた熊野神社は、三都村大字今熊字金蔵院原(現大阪狭山市今熊)にある三都神社に合祀されました。その頃の岩室には、熊野神社以外にも字笠塚山の琴平神社(御祭神:大物主命、火結神、大年神)、字愛宕山の愛宕神社(御祭神:火雷神)、字濁池の厳島神社(市杵島姫命)がありましたが、これらの神社も時を同じくして三都神社に合祀されています。
一の鳥居の額 |
しかし、熊野神社の社地はそのまま残されていたらしく(当時の地図にも鳥居の記号あり)、昭和53年(1978年)に地元の人々の要望により復社し、現在の池之原神社として祀られることになったそうです。なお、1kmほど北東には狭山神社から復社した狭間神社もあります。
「手水盥 金山神 秋山神」と彫られた水盤 |
池之原集落は狭山池の西除川流出口のすぐ西にあり、明治の初めまでは河内国丹南郡岩室村に属していましたが、村は現在大阪狭山市の岩室と池之原に分かれています。この河内の岩室村の西には和泉国大鳥郡岩室村があって、こちらは現在堺市南区岩室となっていますが、もともと一つの村だったようです。和泉の岩室村には岩室山観音院があり、そちらでも熊野権現が祀られています。
また、三都神社も別名として熊野神社と呼ばれており、池之原や、今熊、そして河内・和泉の岩室といった陶器山周辺では熊野権現を祀ることが多かったことがわかります。
これには理由があり、かつてこの辺りには高野山、さらにその先の熊野といった聖地のある紀伊国へ通じる西高野街道や天野街道が通っていたことから、街道沿いには紀伊国熊野から勧請された御祭神として熊野権現が多く祀られたと考えられています。
拝殿のご神符の箱 |
現在の池之原神社は神職不在神社のようで、拝殿の「ご神符」の案内には「池之原神社世話人会」と書かれていたので、普段は氏子中心に管理されているようでした。
境内
南河内で言うと、美具久留御魂神社のように集落の側の山(丘)が神社の境内になっているので、まずは少し離れた場所から全体の様子を確認すると、まさに鬱蒼とした鎮守の杜といった雰囲気です。宮山と参道入口 |
「池の原」交差点から西に進むと、すぐに道がY字状に二股に分かれています。池之原神社の参道はこの分かれている2本の車道の間、古いガレージのような建物の右側にあります。
一の鳥居 |
すぐに、まだ新しい感じがする石造りの一の鳥居が見えてきます。これは平成3年(1991年)に建立されたものです。一の鳥居と車道の間はまだ一部整備されていない感じでした。
この鳥居の左手には高野山真言宗の金玉山西福寺がありますが、これはかつて熊野神社の神宮寺だったようです。
石段の上り口 |
一の鳥居をくぐると石段がありますが、ここからは少し上って左に折れ、平らな部分を進むと再び右に石段が上へ延びるクランク状の参道となっています。
江戸時代の水盤 |
石段の手前左手には、時代を感じさせる水盤(手水鉢)が置かれていますが、これは江戸時代の元禄年間のもののようです。
「永代常夜燈」 |
石段を上りきると2本の灯籠が現れ、右手から左手へ上る坂道に出ますが、左に上へと続く階段が見え、参道が再びクランク状になっていることがわかります。
二の鳥居への階段 |
次の階段は少し先に朱色の二の鳥居が見えています。
手水舎 |
朱色の鳥居をくぐると広場になっていて正面に拝殿が見えますが、すぐ右手には手水舎があります。手水鉢は寛政11年(1799年)のもの。
社務所 |
さらに、手水舎の奥には社務所のような建物が。
広場(南側) |
朱色の鳥居から左手を見ると、広場の先に左下から登ってくる坂道がありますが、この道は先ほど階段を上る前に横切った道で、だんじりが上ってくるようです。
拝殿 |
正面の拝殿はあまり見ないタイプの様式で、こちらへはまた少し石段を上ります。広場の大きな石灯籠は昭和になって復社した時に建立されたものですが、拝殿前の狛犬と石灯籠はいずれも江戸時代のもののようでした。
拝殿内部の賽銭箱など |
拝殿で参拝し、奥を見るとさらに石段があり、その先に三社造の本殿があるようでした。本殿手前右側の手水鉢は、かつて池之原神社の背後にある山(愛宕山)に祀られていた愛宕大権現のものだそうです。
本殿 |
拝殿の横に回ると上の本殿が少し見えます。池之原神社の社殿はいずれも金属を多用した造りになっているようです。
境内社 |
また、拝殿に向かって右側、社務所の左手には境内社があります。
高森大神と戎大神 |
こちらの末社殿には高森大神と戎大神が祀られています。
西福寺山門 |
「池の原」交差点の西にあるY字路(三叉路)を左(象印チエンブロツク方面)に進むと、前出の西福寺があります。状高野山真言宗の金玉山西福寺が
本堂の屋根(裏山に池之原神社) |
以下、大正時代大阪府全志によると、西福寺は承応元年(1652年)に創立された寺院で山号は金玉山。寛文12年(1672年)に寺号を公称。もとは禅宗でしたが宝永年間(1704年~1711年)に僧玄海が真言宗に改めたとあります。また、高野山真言宗(金剛峯寺末)で阿弥陀仏、観世音菩薩、薬師仏を本尊としている、とあります。
祭礼
毎年10月第2土曜・日曜日に、大阪狭山市周辺の地車(だんじり)祭りがあり、池之原地区は池之原神社北側にだんじり小屋があります。産経新聞の記事によると、池之原地区では大正15年(1926年)に奈良県内から買い取った中古のだんじりを長年使用していましたが、平成26年(2014年)に新調され、9月21日、地区内の池之原神社で入魂式の後に住民らに披露されました。新しいだんじりは高さ3.8m、幅2.4m、重さ3.5トン。
なお、以前のだんじりは、河内長野市木戸の鳴尾(どんど)地区に売却されました。現在、鳴尾地区は千代田神社の氏地ですが地区内には鳴尾神社もあります。
国道310号からは「池の原」交差点を、大阪方面からは右折、狭山池北岸からは直進、河内長野方面からは左折し、約180m先のY字路の突き当りから入ると一の鳥居がありますが、車は入れません。Y字路を右に少し進むと左手に消防団の車庫があり、その向こうに池之原のだんじり小屋が見えます。だんじり小屋の手前の坂を登れば拝殿前の広場に出ますが普段は途中に車止めがあり入れないようです。小屋前のスペースに駐車可能かは不明。
アクセス
鉄道では、南海高野線「狭山」駅、「大阪狭山市」駅のどちらからでも徒歩で約1.7kmとなっています。両駅前からも乗車できる大阪狭山市のコミュニティバス「さやりんバス」に乗車し「池之原会館前」で降りると神社のすぐ北側です。消防団車庫とだんじり小屋 |
国道310号からは「池の原」交差点を、大阪方面からは右折、狭山池北岸からは直進、河内長野方面からは左折し、約180m先のY字路の突き当りから入ると一の鳥居がありますが、車は入れません。Y字路を右に少し進むと左手に消防団の車庫があり、その向こうに池之原のだんじり小屋が見えます。だんじり小屋の手前の坂を登れば拝殿前の広場に出ますが普段は途中に車止めがあり入れないようです。小屋前のスペースに駐車可能かは不明。
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