蔵塚古墳
2021年2月訪問
蔵塚古墳(くらづかこふん)は大阪府羽曳野市飛鳥にかつてあった古墳です。羽曳野市中心部から藤井寺市にかけての一帯には、令和元年(2019年)に国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産に登録された古市古墳群がありますが、蔵塚古墳は同古墳群から石川を隔てて2kmほど離れた羽曳野市東部にありました。
蔵塚古墳(羽曳野市) |
蔵塚古墳周辺はかつて近つ飛鳥と呼ばれた地域で、難波の津と大和国を結ぶ日本最古の官道とされる竹内街道が通っており、その沿線には飛鳥千塚古墳群などの群集墳が広がっていることが知られていましたが、当古墳は南阪奈道路建設に伴う事前調査で発見されました。
歴史と概要
蔵塚古墳が発見されたのは大阪府羽曳野市の東部に位置する駒ヶ谷・飛鳥地区で、石川の支流である飛鳥川に沿う形で摂津国や河内国と大和国を結ぶ竹内街道が通るなど古代から重要な地域でした。この周辺は「近つ飛鳥(河内飛鳥)」とも呼ばれますが、これには後に第18代反正天皇となる多遅比瑞歯別尊(水歯別命)が、難波から大和国の石上神宮に参向する途中で二泊し、その地の内、都であった難波宮から近い方を「近つ飛鳥」、遠い方を「遠つ飛鳥」と名付けたという説があります。近つ飛鳥は現在の大阪府羽曳野市飛鳥周辺を、遠つ飛鳥は奈良県高市郡明日香村飛鳥を中心とした地域を指します。ちなみに、蔵塚古墳から300m北西には反正天皇仮宮跡の碑があります。
同地区は現在でも竹内街道の後継である国道166号や近鉄南大阪線、さらに自動車専用道路(高速道路)である南阪奈道路が同地区を横断するなど交通の要地となっていますが、風景は二上山の麓にぶどう畑が広がる長閑な田園地帯といった印象です。
同地区は現在でも竹内街道の後継である国道166号や近鉄南大阪線、さらに自動車専用道路(高速道路)である南阪奈道路が同地区を横断するなど交通の要地となっていますが、風景は二上山の麓にぶどう畑が広がる長閑な田園地帯といった印象です。
そんな近つ飛鳥で発見された蔵塚古墳ですが、現在は古墳の存在を確認することは出来ず、現地に説明板なども見当たりませんでした。しかし、古墳の概要や調査時の様子を記した(財)大阪府文化財調査研究センターの「蔵塚古墳-南阪奈道路建設に伴う後期前方後円墳の発掘調査-」などの資料から以下の様なことがわかりました。
近つ飛鳥を含む南河内地域に、大阪と奈良を結ぶ南阪奈道路の建設が計画され工事開始が公示されたのは昭和49年(1974年)ですが、南阪奈道路建設予定地にはすでに多くの遺跡や遺物の散布地の存在が知られており、早くからその取扱いについて大阪府教育委員会をはじめ、当時の建設省、大阪府土木部、 日本道路公団大阪建設局等の関係機関の間で協議が続けられてきたそうです。
周辺では昭和45年度(1970年度)、46年度(1971年度)、昭和60年(1985年)、平成元年度(1989年度)などに調査が行われ、比較的良好、かつ広域に遺跡が分布していることが明らかとなりましたが、そんな中に飛鳥時代から中世の集落の遺構などともに、周濠を伴う前方後円墳の遺構が検出されました。新規発見された前方後円墳は駒ヶ谷遺跡に含まれていましたが、所在地の小字名を取って「蔵塚古墳」と名付けられました。
なお、蔵塚古墳周辺の小字が「蔵塚」ということで「塚」地名が古墳であることを伝承していたことから、早くに全壊し実態は不明ながら500mほど南東の「御塚」という地名を伝承している場所にあったとされる御塚古墳の存在も現実味を帯びて来ます。
蔵塚古墳の本格的な調査は平成8年(1996年)12月から翌平成9年(1997年)12月まで行われました(この時は北側約3分の1が調査範囲外)。
蔵塚古墳は古代以降の建物造営や近現代の開墾によって削平が大規模に進んでおり、発見時には墳丘の多くを既に失っていましたが、調査の結果、蔵塚古墳は前方部を西北西に向けた前方後円墳で盾形の周濠を持っていたことが判明しました。古墳の規模は墳丘長約53.5mで周濠まで含めると総長約68.9m、後円部径約33.4m、前方部長約20.1m、前方部幅は未発掘の部分があるものの推定で45m以上とされています。なお、周辺の状況から墳丘はシンメトリーではなく「片直角型前方後円墳」とする説もあるようです。周濠は幅約8mで、後円部南側と前方部西側に陸橋が1カ所ずつ存在していました。
この様に、前方部が非常に大きく広がる特徴的な平面形や周濠の幅の比率、陸橋あるいは土手道が付く点で古市古墳群でも新しい段階の前方後円墳である安閑天皇陵(高屋築山古墳)との類似(陸橋の位置も同じ)が指摘されている他、清寧天皇陵(白髪山古墳)の形に近い(墳丘長はほぼ半分)ともいわれています。
前述のように、蔵塚古墳墳丘の削平は著しく、石室などの埋葬施設が全く遺っておらず、墳丘上の埴輪列や葺石も残存していませんでしたが、墳丘盛土内の須恵器や周濠から出土した数点の須恵器と埴輪片から築造年代の上限は6世紀中頃と推定されています。他にも周濠部分からは、鉄製品として小刀1点、鉾1点、茎2点、不明板状製品1点が出土していますが、当古墳に関連する遺物かどうかは不明です。
狭山池博物館の展示1 |
蔵塚古墳は発見された時点で既に削平によって墳丘の上半分を失っていましたが、そのことにより結果的に墳丘盛土の徹底的な調査が可能となりました。
この調査によって、土嚢を積み上げて区割した部分に盛土しながら墳丘を築造するという当時の墳丘盛土工法の様相が判明しました。蔵塚古墳は少なくとも4段階にわたる工程で段階的に築造されたようです。このような分割盛土工法は韓国の昌寧校洞古墳群の一部で確認された墳丘築造技術と共通しているとの指摘もあります。また、日本国内の古墳では静岡県の瓦屋西古墳群B3号墳、大門大塚古墳、鳥取県の晩田山古墳群、愛媛県の大池1号墳、福岡県の五郎山古墳、奈良県の石のカラト古墳、六道山古墳などといった古墳時代後期から終末期の古墳でも、築造の際に土嚢らしきものが使用されていることが明らかになっています。
また、蔵塚古墳の築造時期は6世紀中頃と見られていますが、大阪狭山市にある狭山池の7世紀前葉に構築された池堤にも土嚢が使われていることから、古墳築造で培われたこれらの土木技術が後に築堤など治水工事にも活用されたと考えられています。大阪府立狭山池博物館には蔵塚古墳を紹介したパネルもあります。
狭山池博物館の展示2 |
蔵塚古墳が属する駒ヶ谷遺跡周辺では、飛鳥川右岸(北岸)の丘陵上の飛鳥千塚古墳群や終末期古墳である観音塚古墳や鉢伏山西峰古墳などの存在が知られているものの、周濠を持つ前方後円墳の存在は確認されていませんでした。
近つ飛鳥周辺の前方後円墳の分布を見ると、北側の玉手山丘陵上には前期の前方後円墳が築かれ、石川の西側には応神天皇陵に代表される大規模な中期の前方後円墳を中心とした古市古墳群が展開しています。その一方で、石川と飛鳥川に挟まれた丘陵上には壺井丸山古墳、御旅山古墳、通法寺裏山古墳といった前期の前方後円墳がありましたが、いずれも丘陵西側の石川谷に面しており、丘陵東側の飛鳥川に面した斜面に造られた蔵塚古墳とは立地と年代に隔たりがありました。
蔵塚古墳から約800m東には、素盞嗚命を祀る式内社の飛鳥戸神社(あすかべじんじゃ)が鎮座していますが、その周辺は5世紀に人質として渡来した百済王族の昆伎王(こんきおう)の子孫である飛鳥戸造(あすかべのみやつこ)氏族の居住地であったことから、飛鳥戸神社にはもともと飛鳥戸造の祖神として昆伎王が祀られていたと考えられています。飛鳥川右岸には渡来系氏族の墓域であったと考えられている飛鳥千塚古墳群や観音塚古墳といった古墳があることから、飛鳥川左岸の蔵塚古墳も飛鳥戸造氏が造営したという説もありますが、右岸に直径10mほどの円墳が多数あったのに対し、左岸には周濠を持ったはるかに大きな古墳が(現在発見されている限り)一つのみという興味深い状態といえます。
古墳の現状
南阪奈道路が完成した現在、現地には蔵塚古墳があったことを示す石碑や説明板も無いようでした。
北西から見た南阪奈道路 |
蔵塚古墳があった場所は、大阪方面から見ると南阪奈道路が石川の東にある大黒(おぐろ)の丘陵地を抜けるトンネル(大黒トンネル)の東側になります。今回は北側の側道を大黒トンネルから東に一つ目の側道連絡路から東(上ノ太子駅方面)に向かいます。
北側側道を東へ(正面に二上山) |
南阪奈道路の北側側道を東に向いて歩くと、正面には奈良との境である二上山が、左(北)には大陸系の遺物を出土する群集墳が広がっている駒ヶ谷から飛鳥地区の丘陵が見えます。
北側の丘陵 |
側道北側には国道166号(竹内街道)や近鉄南大阪線が走っていますが、その手前に広大な空き地(草原)が広がっています。現在、この辺りの南阪奈道路や側道と近鉄線の間の空き地となっている区域は昭和の頃まで田畑となっていましたが、南阪奈道路建設に伴う事前調査の際に前方後円墳の存在が確認され、周囲の字名から蔵塚古墳と名付けられました。
推定地付近北側から南を望む |
資料の地図や航空写真などから、実際に蔵塚古墳が埋没していたと推定されるのは大黒トンネルから東に2つ目の南北の側道をつなぐ連絡路付近と思われます。現在は古墳の北西にあって南阪奈道路開通後も北側に残されていた三角形の板子池も無くなっています。
推定地付近南側から西を望む |
一方、高架下の連絡路の南側には、古墳の少し南側に位置していた口濁り池が現存しています。
側道南側の景色 |
昭和初期には、駒ヶ谷遺跡南側の溜池の堤から巨大な塔心礎が掘り出されるなどしています。また、1kmほど南南東には御嶺山古墳が、同じく1kmほど南には通法寺跡や源氏三代の墓が、また、650mほど南西には源氏ゆかりの壺井八幡宮があります。
南東から見た南阪奈道路 |
南側側道を東に進むと250mほどで最初の側道連絡路の南側に着きます。この先の丘は大黒地区や壺井地区となっており、石川に面した西側斜面に前出の前期前方後円墳がある他、大黒寺や式内社の大祁於賀美神社などがあります。なお、側道の突き当りを左(南)に進むと壺井八幡宮や通法寺跡へ至ります。
コメント
コメントを投稿