菅生神社
2021年5月訪問
菅生神社(すごうじんじゃ)は大阪府堺市美原区菅生にある神社です。平安時代に記された「延喜式神名帳」に河内国丹比郡11座のうちの一つとしてその名が記載された、いわゆる式内社(大社)で、明治時代以降の近代社格制度では郷社に列格していました。
菅生神社(堺市美原区) |
現在は学問の神様である菅原道真公を祀る神社として一般的に「菅生天満宮」と呼ばれることも多い当社ですが、その経緯については「菅生」という地名も関係しているようです。
歴史と概要
菅生神社の正確な創建年・由緒は不祥です。主祭神は天児屋根命と菅原道真公で、合祀神として天照皇大神、素盞嗚尊、誉田別命、安閑天皇を併せて祀っている他、多くの境内社があります。
社伝によると、平安時代に編纂された「新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)」の河内国神別の条に「菅生朝臣 大中臣朝臣同祖 津速魂命三世孫天児屋根命之後也」とあるように、かつてこの地には藤原氏などの有力氏族を出した中臣氏(なかとみうじ)の一族が多数居住しており、その地名から菅生氏を名乗って当地を支配していました。菅生氏は天平18年(746年)に菅生朝臣の姓を賜り、後に検非違使や神琴師として朝廷に重用されました。その菅生氏が祖神である天児屋根命(春日神)を氏神として祭祀したのが菅生神社の創始とされています。
菅生神社の文献上の初出は平安時代の「新抄格勅符」の大同元年(806年)の牒にある「孝謙天皇 天平宝字八年 本国封一戸を充て奉る」という記述で、天平宝字8年(764年)に菅生神に河内国で封戸(ふこ)「一戸」が奉られたことがわかっています。「三代実録」には「天安三年(859年)正月二十七日甲申従五位下より従五位上」に進階したと記されている他、「延喜式神名帳」には「河内国丹比郡菅生神社」と記載され大社に列し、月次祭、新嘗祭には官幣に預かったとされています。
説明板 |
建武(1334年~1338年)・歴応(曆應。1338年~1342年)年間に二度の兵火に罹り、社殿や什宝のほとんどを焼失しています。
中世になり天神信仰が広まると、菅生神社の神宮寺である真言宗の高松山金剛院天門寺の社僧が「菅公は境内の菅沢の畔で生まれた」という説を唱え天神を勧請したようですが、これは当地の地名「菅生」から「菅原道真公の誕生地」が連想されたようです。
当社に所蔵されている北野天神縁起巻三巻の奥書によれば、この絵巻は応永34年(1427年)3月に誓願寺住職杲盛が願主となり野田庄惣社高松宮に奉納されたもので、絵巻の中には「菅原道真公が境内にある『菅澤(菅沢)』の畔から忽然と誕生された」という説に基づく描写があり、当時天神信仰が全国的な風潮となっていたことに乗じて、天神を勧請・配祀して菅生天満宮と称するに至ったようです。
ちなみに、菅原道真は現在の京都市上京区で生まれたとされており、前述のように菅生の地名も道真の誕生以前からあったものです。また、「菅生神社」は全国にいくつかありますが(読みは「すがお」なども)、菅原道真公を祀っていない神社も多いようです。
江戸時代になると、天神の方が主祭神のようになったことから「菅生天満宮」と呼ばれることが多くなったようです。また、同じく江戸時代には現在の京都市左京区修学院にある林丘寺宮(音羽御所)の御祈願所と定められ毎年同宮家から幣帛料の供進があった他、丹南藩主も毎年玄米五斗宛を寄進していたようです。ちなみに、丹南藩主高木家の菩提寺でもある来迎寺(東隣にかつて丹南陣屋がありました)の御本尊は鎌倉時代末期に当社から感得されたそうです。
明治に入ると神仏分離により神宮寺は廃寺となりました。明治5年(1872年)に旧社格制度で郷社に列格し、明治40年(1907年)1月には神饌幣帛料供進神社に指定されました。同年10月30日に当時の野田村大字南野田字穂出籬の村社八坂神社、11月11日に野田村大字北野田字東森山の村社天照大神社、12月18日に黒山村大字黒山字下黒山の村社菅原神社、23日に平尾村大字平尾字平喜の村社平喜神社を本殿に合祀。また、同年11月9日に黒山村大字南餘部字水無の村社餘部神社(余部神社)、12月17日に狭山村大字東野字八王寺の村社大歳神社、18日に黒山村大字阿弥の村社八幡神社を境内に合併移転しました。
「菅生天満宮 本殿」の説明板 |
菅生神社の本殿は江戸中期の万治4年(1661年)に建立されたもので、堺市の指定文化財となっています。本殿では天保11年(1840年)に小屋組の改造、安政4年(1857年)に内陣・外陣の改造、昭和48年(1973年)の檜皮の修理といった部分的な修理が行われましたが社殿全体の老朽化が激しく、平成3年(1991年)から始まった「平成の社殿御造営事業」で350年ぶりに本殿を解体して保存修理が行われました。
また、拝殿と幣殿は享和3年(1803年)の再建で本瓦葺きとなっていましたが、本殿の修理に合わせて新社殿は総檜の入母屋造銅板葺(棟は瓦甍積)として平成20年(2008年)5月に竣成しました。
この「平成の社殿御造営事業」を後世に残すための記念碑が境内に建立されています。
菅生神社には、「菅生天神縁起絵巻二巻(狩野永納画)」や「北野天神縁起絵巻三巻」などが奉納されている他、「天神画像五幅」、「菅公御一代絵伝十二幅」、「金泥法華経一巻」、「狩野永納奉納三十六歌仙画帳」などといった文化財があります。
菅生について
鎮座地である菅生について、由緒によれば、上古この地は沼地が多く菅(すげ)が付近一帯に生えていたことから菅生と称したとされています。河内国丹比郡(たじひのこおり)に属し、菅生郷と呼ばれていました(和名類聚抄には「丹比郡菅生 須加不」)。平安時代後期に丹比群が丹北と丹南に分割されると丹南郡に属しました。
江戸時代頃には河内国丹南郡菅生村と呼ばれていましたが、明治22年(1889年)に丹南郡平尾村、小平尾村と合併して、新たに町村制における丹南郡平尾村が発足。菅生はその大字となりました。明治29年(1896年)に所属郡が南河内郡に変更。その当時の鎮座地住所は南河内郡平尾村大字菅尾字菅生となっていました。昭和31年(1956年)に平尾村、丹南村、黒山村が合併して南河内郡美原町となりますが、平成17年(2005年)に堺市に編入され現在の堺市美原区菅生となります。
祭礼
10月には秋季大祭があり、氏子地区の地車(だんじり)が出ますが、近年菅生神社に宮入するのは菅生、菅生新田、北野田、南野田、北野田駅前商店街連合会のだんじりのようです(以前は阿弥なども宮入していたようです)。氏子地区の西部では「登美丘だんじり祭り」も行われ、北野田、丈六、高松、南野田、北野田駅前商店街連合会の全五町の地車が曳行されますが、この内高松と丈六のだんじりは萩原神社に宮入します。
また、同じく10月には伊勢大神楽奉納もあります。
参道と境内
菅生神社(菅生天満宮)を参拝する際に、まず最初に気になるのが一の鳥居です。
中高野街道沿いにある一の鳥居 |
一の鳥居は菅生神社の神門から西に300mほど離れた府道198号河内長野美原線に面して建っています。菅生神社の西側を南北に通るこの府道はかつての主要道路である中高野街道で、明治・大正期の地図を見ても中高野街道から菅生神社に向けて真っ直ぐな参道が伸びているように見受けられます。
神社側から見た一の鳥居 |
中高野街道は現在の大阪市平野区から発し、大阪狭山市で下高野街道と合流して高野山へ向かう街道です。現在でも「東野」交差点から北に向かうと松原、南に向かうと大阪狭山、西に向かうと堺と標識に記載されています。
中高野街道から菅生神社に向かう参道入口には石造りの一の鳥居がありますが、現在は道ではなく道端に建てられています。これは現在この参道が路線バスも走るなどそれなりに交通量の多い道で、車両の通行に支障をきたすために南側にずらされたと思われます。
また、鳥居の北側には「當社菅生天満宮」や「三日市」、「高野山」などと彫られた道標(兼社号標?)が残されています。
一の鳥居からの参道 |
一の鳥居から東の菅生神社神門に向かう直線の参道は300mほどあり、その先には二上山が見えています。
神門 |
道路が少し下り坂にさしかかったところで左手に神門が見えてきます。
神門の向かいにある石灯篭 |
神門の向かい側に背の高い一対の石灯篭があります。
南東側の看板 |
神社に沿ってもう少しに東に進むと、信号を過ぎた辺り(神社の南東側)に「菅生天満宮」の看板があります。
東側の境内入口 |
看板からさらに東には石灯篭の間に石段が延びていますが、こちらは神社東側の参道になります。ちなみに、旧菅生村の集落は神社の北東(東除川左岸)にあったので産土神への参拝にはこちらの参道が主に利用されていたのかもしれません。
二の鳥居 |
神社の南側にある神門前に戻り、石段を上って神門をくぐると正面に石造りの二の鳥居、そしてその奥に立派な拝殿が見えます。
菅生神社の境内は東西最大約130m、南北約100mほどで、社殿や鳥居などは南向きとなっています。
手水舎 |
手水舎は門をくぐって左側にあります。そのそばには百度石などもあります。手水鉢には「天満宮」の他に「高松山天門寺」の文字も。
拝殿 |
二の鳥居の先には狛犬や石灯篭があります。石畳の参道の奥にある拝殿は前述の「平成の社殿御造営事業」から(当社の歴史に比べると)それほど年月が経っていないのでまだ真新しい印象を受けます。
左側の御神牛 |
拝殿前には狛犬や灯篭、石碑などの他に、天満宮でお馴染みの臥牛像(御神牛)が狛犬のように左右に配されています。
右側の御神牛 |
なお、左右の御神牛は撫で牛のように触れることはできません。
「天満宮降誕地」碑 |
拝殿に向かって右手には説明板がありますが、そのそばに「天満宮降誕地」の石碑があります。京都市下京区の菅原道真誕生地の近くにも「天満宮降誕地」の石碑があるようです。
鳥居横の石碑 |
また、鳥居の右側には「菅生の開張に平尾の山でごまのぼたもちせんど食た」の石碑(歌碑?)もあります。
社務所 |
拝殿に向かって左手に社務所、その奥に参集殿のような真新しい建物があります。社務所では各種受付の他、由緒などを記したリーフレットもいただけます。
今回は拝殿に向かって右側、つまり南東から境内を巡ります。
「河内ふるさとのみち」地図 |
神門から入ってすぐ右手には、案内板「河内ふるさとのみち」があり、美原区内の史蹟などの地図が描かれていますが色あせていてあまり読めません。その奥には「平成の社殿大造営 記念之碑」が建てられている他、「三角点」と書かれた木の柱などもありました。
遥拝所 |
大造営記念碑の手前には遥拝所がありますが、方角的に伊勢の神宮遥拝所と思われます。
菅生稲荷神社 |
遥拝所の左に鎮座しているのが朱色の鳥居が並ぶ稲荷社「菅生稲荷神社」です。
菅生稲荷神社 |
菅生稲荷神社には拝殿も設けられています。
稲荷神社のさらに左側には、菅原道真が誕生したとの伝説がある池「菅沢」が現存しています。池を囲む柵の内側には神社の由緒を記した古い石碑が建っています。
境内の北東側 |
ここで左(北)を向くと、拝殿、幣殿、本殿の右奥に寺院のような建物が見え、その手前右側に白壁を巡らせた境内社があることがわかります。
元宮菅生明神社 |
白壁の境内社は「元宮菅生明神社」です。菅生神社の創建に関わる神社なのでしょうか。
東側参道の注連柱 |
元宮菅生明神社から右手、つまり東側にも境内が続いており、先のほうに玉垣や注連柱が見えますが、こちらが菅生神社の東側参道になります。
三つ並ぶ古い手水鉢 |
こちらで興味深いのは、注連柱の手前右側に並ぶ古い三つの手水鉢です。これらは彫られた文字から菅生神社に合祀された周辺各村の村社(氏神)にあったものと思われます。
境内東端付近の灯篭 |
手水鉢の向かい側には石灯篭などが並んでいますが、こちらも合祀された神社のものかもしれません。
恵比須神社 |
元宮菅生明神社前に戻り、境内北側の寺院のような建物に向かいます。この仏教建築の建物はかつて当社の神宮寺だった高松山天門寺の本堂で、現在は境内社の「恵比須神社」となっています。
恵比須神社と高松山の額 |
「恵比須神社」の額が中央に掲げられていますが、右側には「高松山」の扁額も残されています。
御霊神社の鳥居 |
恵比須神社の左手、本殿の背後にあたる境内北端に鎮座しているのが「御霊神社」です。
八幡神社 |
御霊神社の左手には誉田別命を御祭神とする「八幡神社」が鎮座しています。御霊神社と八幡神社は鎮守の杜の中で静かに佇んでいる雰囲気です。
琴平神社 |
八幡神社からさらに左に進むと、「琴平神社」が鎮座しています。
琴平神社前で左を向くと、素晴らしい本殿を北西側から見る位置にいることがわかります。
こちらには説明板があり、それによると、菅生神社の本殿は一間社春日造で軒唐破風、桧皮葺、正面柱間7尺の式内社としての格式を示す大きなもので、擬宝珠の刻印や内部の琵琶板の墨書から万治4年(1661年)に建てられたとわかる市内屈指の古さを持つ神社建造物となっています。享和元年(1801年)に刊行された「河内名所図会」に描かれた社殿配置と変わらず当時の景観を保つ貴重な建物で、堺市の市指定有形文化財に指定されています(本殿内部は非公開)。
前方には平成に入り新たに造営された幣殿と拝殿が接続し、周囲は側面に中門を設けた瑞垣で囲まれています。
大歳神社 |
本殿の西側、参集殿との間を南に進み、拝殿付近まで来ると右(西)側に「大歳神社」があります。
大歳神社の社殿 |
大歳神社は旧東野村の氏神です。拝殿側(東)を向いた大歳神社には鳥居や玉垣があり、奥の覆屋内に流造の社殿があります。
余部神社 |
大歳神社の左側には路地を挟んで素浅鳴命(素盞嗚尊)や誉田別命などを祀る「余部神社」が鎮座しています。
余部神社の社殿 |
余部神社は旧南余部(南餘部)村の氏神で、割拝殿の奥には古い本殿があります。本殿にはこちらも歴史を感じさせる大きな奉納絵馬や随身像があり、本殿手前右手には御神牛(臥牛像)まであります。
なお、余部神社があった旧南余部村(現堺市美原区南余部)には余部神社遥拝所が建てられている他、菅生神社の境内社である余部神社と同様の比較的新しい独自の説明板が掲示されていることから、旧南余部の人々の信仰心がわかります。
アクセス
国道309号「菅生」交差点から府道36号泉大津美原線を西に500mほど進むと右手に「菅生天満宮」の看板が見えて来ます。神社前の三叉路(信号あり)を神社に沿って右に進み、約80m先を右折。30mほど先の右手に舗装された広い参拝者用駐車場があります。
府道198号河内長野美原線(中高野街道)からは、「東野」交差点のすぐ北(「ファミリーマート 大阪狭山東野中店」の北西角)にある一の鳥居横から府道36号を東に進み、約250m先を左折すると上記の駐車場となります。神社正面の神門は府道を直進した80mほど先の左手です。
駐車場 |
公共交通機関では、南海高野線「北野田」駅から近鉄バスに乗車し「東野」バス停下車。約220m東(進行方向)に神門があります。「菅生」バス停からは西(北野田方面)に約200mで神社東側の入口に着きます。
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