蔵之内日吉神社
2021年6月訪問
蔵之内日吉神社(くらのうちひよしじんじゃ)は大阪府羽曳野市蔵之内にある神社です。南河内地域の大動脈の一つである国道170号(外環状線)の西側、大阪府堺市美原区と奈良県葛城市を結ぶ南阪奈道路の北側を中心とする蔵之内地区の氏神で、歴史的価値のある本殿が今も残っています。明治時代の社格制度では村社に列格していました。
蔵之内日吉神社(羽曳野市) |
蔵之内日吉神社の鎮座地は羽曳野丘陵の東側斜面の頂上付近となっており、拝殿前からは蔵之内地区だけではなく、南から北に流れる石川、さらにその向こうにある二上山などもよく見え、まさに「村を見守る鎮守様」にふさわしい立地といえます。
歴史と概要
大阪府神社庁などでも当社は「日吉神社」とされていますが、社頭の社号標に「蔵之内日吉神社」とあること、また、現在の羽曳野市内には他にも丹下、野、西浦といった数社の日吉神社があるため、当記事では「蔵之内日吉神社」と表記します。
拝殿に掲げられた「蔵之内日吉神社の由緒・沿革」によると、蔵之内日吉神社の創建は室町時代の延徳元年(1489年)6月に近江国滋賀郡坂本村(現滋賀県大津市坂本)の日吉神社(現在の日吉大社)の分霊を勧請したものとされています。これは、当社から600m少々北に鎮座する西浦日吉神社の創建と同年同月で勧請元も同じです。鎌倉時代から室町時代にかけてこの周辺が比叡山延暦寺の荘園となっていたことから隣り合う村同士足並みを揃えた、ということでしょうか。
日吉神社ということで、御祭神は西浦日吉神社などと同じ大山咋命(おおやまくいのみこと)となっています。
当社の由緒・沿革には、大山咋命について「素戔嗚命を祖父、大年神を父神とし、天知迦流美豆比売命(あめのちかるみずひめのみこと)を母神として生まれ給うた神。」、「日吉神社は通称山王権現とも言われ、猿を神の使いとする。」、「ご利益は、地域安全、家内安全、厄災除け、病気平癒、五穀豊穣などがある。」と説明されています(大山咋神については西浦日吉神社、藤井寺市の大山咋神社の記事も)。
西浦日吉神社にある歴史街道の説明板には、「羽曳野丘陵東側の平地には丘陵に沿うように北から西浦、蔵之内、尺度といった村々がありましたが、この一帯は古くから良質の水田が広がっていたため、物部氏や蘇我氏といった豪族をはじめ、国の支配地となっていましたが、鎌倉時代から室町時代にかけてこの周辺は比叡山延暦寺の荘園となります。」とあります。
鎮座地である羽曳野市蔵之内や北隣の西浦、南隣の尺度は、もともと河内国古市郡尺度郷に属する地域で、後にそれぞれ蔵之内村、西浦村、坂田村(江戸時代には東坂田、西坂田、新家)と呼ばれるようになりました。
現在、旧蔵之内村には蔵之内日吉神社、旧西浦村には西浦日吉神社、旧坂田村(現在の尺度のみ)には利雁神社がありますが、西浦日吉神社の歴史街道説明板には、「室町時代、この地に比叡山の山岳信仰を源流とし、延暦寺の地主神として信仰を集めていた近江国坂本村の日吉神社の神霊が勧請されると、人々は渡来系氏族である利苅村主(とかりのすぐり)の祖先神を祀ったとされる利雁神社を離れて日吉神社を崇拝し、蔵之内、尺度にも日吉神社を建立したとされます。」とあります。ちなみに、尺度郷の利雁神社は尺度村西南の利雁山の上に鎮座し「王の宮」と称する有数の大社で延喜式にも名のある式内社でしたが後に衰微。明治時代に南河内郡喜志村字宮(現在の富田林市宮町)の美具久留御魂神社に合祀されましたが後に復社しています。
説明板 |
蔵之内日吉神社は明治の初めには近代社格制度で村社に列し、明治40年(1907年)11月11日に南河内郡西浦村大字西浦字山王(現羽曳野市西浦)にある西浦日吉神社に合祀されましたが、昭和37年(1962年)10月に分離独立し再建(復社)されました。その後、平成22年(2010年)に拝殿などを改築しています。
なお、蔵之内日吉神社鎮座地周辺は明治の初めまで河内国古市郡蔵之内村と呼ばれていましたが、明治22年(1889年)に同郡内の西浦村、尺度村、東阪田村、広瀬村と合併し、改めて誕生した西浦村の大字となりました。明治29年(1896年)に所属郡が南河内郡に変更。当時の蔵之内日吉神社の鎮座地は南河内郡西浦村大字蔵之内字峰となっています。西浦村は昭和31年(1956年)に古市町、高鷲町、埴生村、駒ヶ谷村、丹比村と合併し、南大阪町が発足します。翌年、南河内郡南大阪町が市制施行し、即日改称して羽曳野市が誕生しました。
かつては蔵之内地区にも地車(だんじり)があり、今も境内に「蔵之内子供会地車庫」がありますが、近年は曳行されていないようです。
蔵之内日吉神社は神職不在神社で、羽曳野市西浦にある西浦日吉神社が管理しています。
境内
旧蔵之内村集落は現在の国道170号(外環状線)から400mほど西にあります。
羽曳野市内には西国三十三所霊場の四番札所で和泉市(旧和泉国和泉郡)にある施福寺(槙尾寺)と、五番札所で藤井寺市(旧河内国丹南郡)にある葛井寺(ふじいでら)とを結ぶが巡礼街道が残っていますが、蔵之内集落の中心は巡礼街道よりさらに西にあったようです。
集落から神社への参道(右に衝破除) |
蔵之内日吉神社は旧蔵之内村集落の西側にある丘、羽曳山(羽曳野丘陵)の上に鎮座しており、西浦日吉神社同様に参道は旧集落内から西に延びています。
蔵之内日吉神社の背後に当たる西側にはかつて羽曳野丘陵の森が広がっていたようですが、昭和に開発されて現在は羽曳が丘という住宅街になっています(鎮守として羽曳が丘神社が創建されました)。
両側に玉垣が連なる石段は幅が広く、中央に手すりも設置されています。
集落側から見た神社 |
集落からの上り坂の先に鳥居が見えてきます。鳥居の手前右手には真宗興正派の恵日山光福寺があり、鳥居をくぐらず右奥に進むと浄土真宗本願寺派の五明山元勝寺といった寺院があります。
鳥居 |
上り坂がゆるく右にカーブする辺りの左側に石造りの鳥居があり、その先に石段が続いています。羽曳野丘陵の東面に鎮座する西浦日吉神社、利雁神社と同じく、蔵之内日吉神社も社殿、鳥居、参道などがほぼ一直線に東を向いています。
なお、こちらの鳥居には裏面(社殿側)に「天保十五年甲辰」(1844年)の銘がありますが、表面(集落側)に「昭和三十七年十月再建」(1962年)と彫られています。
石段 |
両側に玉垣が連なる石段は幅が広く、中央に手すりも設置されています。
石段上の広場 |
石段を上ると10m四方ほどの平坦な広場があり、正面にはさらに上へと延びる石段と拝殿が見える他、広場の右奥には赤い鳥居の境内社とだんじり小屋が見えます。また、広場の右側(北側)には社務所のような建物があります。
当社には東側の鳥居から続く石段だけでなく、北側の社務所とだんじり小屋の間、南側の広場から延びる坂道、拝殿左手など複数の出入口があるようです。
広場から短い石段を上ると踊り場のようになっており、いくつかの石造物が配置されています。こちらには石灯篭の他に手水鉢もありますが、手水は利用出来ないようです。この先のやや狭い石段を上ると拝殿があります。
ここから先の石造物は蔵之内日吉神社が西浦日吉神社に合祀される以前からあるものが遺されており、石灯篭には「文化七年庚午」(1810年)、狛犬には「文政九年丙戌」(1826年)と江戸時代の元号が見られます。ちなみに、灯篭、手水鉢、狛犬の台座には「氏子中」ではなく「若者中」とあります。
最後の石段を登り拝殿前で参拝します。
拝殿内の様子 |
拝殿は平成22年に再建された比較的新しいもので、奥の扉の向こうに本殿が見えています。
本殿の屋根の一部 |
拝殿の左側に回ると、本殿の一部を見ることが出来ます。現在は、本殿を保護するために覆屋が設けられています。
拝殿からの景色(奥に二上山) |
拝殿前で振り返ると蔵之内、西浦地区の街並みやさらに遠くの二上山まで見渡せます。
なお、鎮座地を両隣の村の神社と比べると、現在の利雁神社は丘の麓、西浦日吉神社は丘の中腹の平坦地、そして蔵之内日吉神社は丘の頂上付近という違いがあるようです。
白玉大神 |
拝殿下の広場に戻り、拝殿に向かって右手、つまり北側に少し歩くと、境内社の白玉大神が祀られています。白玉大神や白玉大明神は各地で祀られており、稲荷社に近い神様のようです。
アクセス
国道170号(外環状線)の「西浦」交差点から西に進み、約350m先にある交差点(2つ目の信号)を左折します。さらに250mほど南に進み、芝池運輸さんの前を右折すると約200m先に蔵之内日吉神社の鳥居があります。
この交差点を右折 |
蔵之内日吉神社に参拝者用駐車場があるかは不明です。北側から入れるだんじり小屋前付近に駐車できそうなスペースもありますが未確認です。
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