楠公誕生地(南河内郡千早赤阪村) ・大楠公こと楠木正成関連史跡の中心地

楠木正成誕生地

2019年10月訪問
楠公誕生地(なんこうたんじょうち)は大阪府南河内郡千早赤阪村水分にある大楠公こと楠木正成(くすのきまさしげ)関連史跡の一つです。千早赤阪村役場から少し東、郷土資料館やくすのきホール、道の駅ちはやあかさかが集まる一角にある楠公誕生地は、歴史上の人物も訪れた特別な場所ともいえます。

楠公誕生地(南河内郡千早赤阪村)
楠公誕生地(南河内郡千早赤阪村)

すぐ北側には楠公産湯の井戸が、さらに周辺には奉建塔建水分神社、そして下赤坂城跡寄手塚・身方塚といった楠公ゆかりのスポットが多数存在しています。



楠木正成

大楠公こと楠木正成は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した武将で、永仁(えいにん)2年(1294年)に河内国石川郡赤阪村、現在の大阪府南河内郡千早赤阪村水分山ノ井で生まれたといわれています。諸説ありますが、父は楠木正遠、母は橘盛仲の娘といわれていて、弟に正季(まさすえ)、息子に正行(まさつら)、正時、正儀がいます。

元徳3年(1331年)に後醍醐天皇が笠置山で鎌倉幕府打倒の兵を挙げると、正成はこれに呼応してここより少し西の赤坂城(下赤坂城)で挙兵しました。少数の兵で赤坂城や千早城などに籠もって幕府の大軍を釘付けにするなど倒幕に貢献し、建武の新政の立役者として足利尊氏や新田義貞らとともに天皇を助けました。

後に尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻すと、正成は新田義貞、北畠顕家らとともに軍を率いて戦いましたが、建武3年(1336年)の湊川(現神戸市)の戦いで尊氏の軍に敗れ、弟の正季とともに自害しました。

河内長野市の観心寺には大楠公首塚がある他、神戸市の湊川の戦いの戦場跡には湊川神社が創建されました。

江戸時代には常陸国水戸藩(現茨城県北部)で形成された政治思想の学問「水戸学」、特に後期水戸学の尊皇思想の中で楠木正成は忠臣として見直しが行なわれ、幕末の志士などに大きな影響を与えました。明治になると南朝が正統であるとされるとして「大楠公」と呼ばれるようになり、明治13年 (1880年)に正一位が追贈されています。明治から昭和初期には「忠臣の鑑」、「日本人の鑑」として讃えられたことから、楠公関連の史跡を訪れる人も多かったようです。

楠公誕生地(南河内郡千早赤阪村)
説明板



楠公誕生地遺跡の概要

「楠公誕生地」の碑の正面、つまり東側には千早赤阪村の施設「くすのきホール」がありますが、このホールが建設された平成2年(1990年)~平成4年(1992年)にかけて発掘調査がおこなわれており、楠公誕生地遺跡には2重の堀に囲まれた建物跡が検出され、出土遺物も14世紀のものが確認されています。 このことから、南にある桐山遺跡とともに楠木氏館跡の有力な候補地となっています。

また、この地から南西に600mほどの距離には下赤坂城が、南南東約1.8kmの距離には上赤坂城が築かれていました。

現地の様子

千早赤阪村水分の楠木正成が誕生したという伝承の残る地には、「楠公誕生地」の石碑が建っています。これは明治8年(1875年)に大久保利通が楠公ゆかりの史跡を巡った際にこの地を訪れ、史跡の保護と顕彰を当時の堺県県令(知事)であった税所篤(さいしょあつし)に整備させ、後に建てられたものです。なお、税所篤は大久保利通、西郷隆盛と並び「薩南の三傑」と称された人物です。

楠公誕生地(南河内郡千早赤阪村)
入口

千早赤阪村郷土資料館の入口手前には木々に囲まれて一角があり、その入口の左右には「楠公誕生地」と彫られた石碑や鎧武者の絵が描かれた石碑などが建っています。

楠公誕生地(南河内郡千早赤阪村)
入口左側の石碑

入口左側にはまず「皇太子殿下行啓御休憩所」の石碑があります。さらにその左にある菊水の家紋と「至誠一貫」の文字が刻まれた武者絵のある石碑は、平成8年(1996年)8月8日の日付が入った比較的新しいもので、「泉州岸和田 石亀石材店 角井久七」氏によるもののようです。和泉国岸和田は楠木氏や南朝にゆかりのある土地として知られています。

楠公誕生地(南河内郡千早赤阪村)
入口右側の石碑と説明板

入口右側には「楠公誕生地」の石碑と真新しい銅板製と思われる「楠公誕生地遺跡」の説明板があります。

楠公誕生地(南河内郡千早赤阪村)
楠公史跡河南八勝第七蹟碑

さらに右手の駐車場寄りには「楠公史跡 河南八勝第七蹟」の碑もあります。

楠公誕生地(南河内郡千早赤阪村)
「楠公誕生地」の碑とその周辺

整備された生垣の中に入ると、中央の一段高くなったところに「楠公誕生地」の石碑が建っており、その周囲に多くの燈籠などが配されているのがわかります。

楠公誕生地(南河内郡千早赤阪村)
桃井春蔵の揮毫による石碑

この地を訪れた大久保利通は堺県令税所篤に史跡の整備を要請し、自ら碑文を書くはずでしたが、3年後に暗殺されました(紀尾井坂の変)。その後、代わって揮毫(きごう)したのが能筆家の桃井春蔵(もものいしゅんぞう)でした。桃井は駿河国(現静岡県)沼津藩藩士の家に生まれた鏡新明智流の剣術家として知られ、幕末江戸三大道場の一つ、士学館の4代目を継ぎました。明治時代には応神天皇陵・仲姫皇后陵の陵掌を務めた他、誉田八幡宮の祠官となり境内に道場を建て撃剣や儒学を教えるなど南河内にゆかりがある人物です。なお、桃井の墓は羽曳野市にある墓山古墳そばの墓地にあります。

楠公誕生地(南河内郡千早赤阪村)
手水鉢

石碑手前にある手水鉢は面白い形をしています。

楠公誕生地(南河内郡千早赤阪村)
義援金箱

また、石碑の前には義援金箱が設置されています。これは、昭和49年(1974年)に組織され保存顕彰にあたっている楠公史跡保存会によるものです(戦前は楠公誕生地保勝会があったようです)。

楠公誕生地(南河内郡千早赤阪村)
碑の左手にある祠

石碑に向かって左手には小さなお社があります。文禄年間(1593~1596年)、豊臣秀吉は増田長盛にこの地の整備を命じ、土壇を築いて付近にあった建武以後の楠木邸の百日紅(さるずべり)を移植した記録が残っています。また、江戸時代の元禄年間(1688~1704年)には領主であった常陸国(現茨城県)下館藩の石川総茂(ふさしげ)も保護を加えるなどの記録があります。

楠公誕生地(南河内郡千早赤阪村)
周辺の御手植えの木々

石碑周辺には明治以降に皇族・旧皇族によって植えられた木であることを示す「御手植」と刻まれた石碑も多数あります。

楠公誕生地(南河内郡千早赤阪村)
竹田宮恒徳王殿下御手植の碑
楠公誕生地碑の前では、誕生日とされる毎年4月25日(永仁2年(1294年)誕生の説あり)には「楠公祭り」が執り行われています。

楠公誕生地(南河内郡千早赤阪村)
正行・久子母子像?

また、楠公誕生地と郷土資料館の間の植え込みの中にかなり歴史のありそうな「楠公母子像」と思われる石像もありました。楠公母子像は、湊川の戦いの後、敗れた楠木正成の首が河内に送られてきた際に、嫡子である楠木正行(まさつら=小楠公)が自害しようとするのを母の久子が、朝敵を滅ぼせとの父の遺訓を忘れぬように、と命がけで諭したという太平記の有名な場面を表したもので、楠木氏にゆかりのある楠妣庵観音寺や四条畷市(四条畷神社)、神戸市(六甲アイランド)などにもあります。

アクセス

大阪、富田林方面からは国道309号を奈良(御所)方面へ向かい、道の駅かなんを越えてすぐの「神山南」交差点を右折します。2kmほど道なりに進むと大きく右にカーブしているので、その先を右折(道の駅などの看板あり)、約200m先を右折すると少し先の左側に道の駅ちはやあかさか、そして楠公誕生地の入口があります。

奈良県御所市方面からは国道309号で水越峠(トンネル)を越え大阪方面へ。府道27号線との分岐を左に入り(右の府道の方が本線扱いのようですので注意)、建水分神社の前を通って300m弱で再び分岐があるので左に。約200m先を右折すると少し先に道の駅と誕生地の入口があります。

公共交通機関では、近鉄長野線「富田林」駅から金剛バスに乗車し「楠公誕生地前」バス停下車すぐ。

楠公産湯の井戸への入口は楠公誕生地から道路を挟んで向かい側(北)にあり、2~300m南にはスイセンの丘や奉建塔もあります。

Birth place of Kusunoki Masashige(Chihayaakasaka Village,Osaka Prefecture)


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