西野々古墳群(富田林市) ・石川沿いの田園地帯に溶け込む後期古墳群

西野々古墳群

2021年3月訪問
西野々古墳群(にしののこふんぐん)は大阪府富田林市伏見堂にある古墳群です。河内長野市との市境に近い、富田林市南部の田園風景の中に広がる西野々古墳群はもともと5基の古墳から構成されていたといわれています。

西野々古墳群(富田林市)
西野々古墳群(富田林市)

西野々古墳群の所在する石川の東岸(右岸)は平地となっていますが、さらに東には嶽山(だけやま)があり、その斜面には嶽山古墳群、田中古墳群などといったほぼ同時代の独立した古墳群が存在している他、周辺には龍泉寺や瀧谷不動明王寺などの歴史ある大きな寺院もあります。


歴史と概要

大阪の南河内地域にある古墳群といえば、羽曳野市・藤井寺市に跨り、応神天皇陵をはじめとする巨大な前方後円墳を多数擁し世界文化遺産にも登録された古市古墳群や、河南町・太子町に広がり200以上の古墳で構成された一須賀古墳群などが知られていますが、富田林市にも比較的小規模ながら興味深い古墳群が存在します。西野々古墳群そんな古墳群の一つです。

西野々古墳群がある大阪府富田林市南部の伏見堂地区は、かつて河内国錦部郡(にしごりぐん)伏見堂村と呼ばれており、村内には本郷、外子(げし)、西野々(西之野、西野野、西の尾とも)といった集落がありました。最も西にある西野々は石川が西に蛇行している付近の東岸、河岸段丘上の集落で、東側は嶽山の麓まで平地となっています。その平地に点在する古墳をまとめて西野々古墳群と呼んでいます。

西野々古墳群(富田林市)
説明板(地図は下が北)

西野々古墳群は5基の古墳で構成されているといわれていましたが、その内1基は伝承では存在するとされているものの現在は確認出来ず、他の4基の古墳が現存しています。4基の古墳はそれぞれ1~4号墳と呼ばれ、現在は耕作による墳丘や地形の改変が著しいものの周囲から見学できる状態となっています。

西野々古墳群(富田林市)
南から見た西野々古墳群

現地の説明板や富田林市のホームページなどによると、西野々古墳群内で最大の1号墳では昭和54年(1979年)の市道伏見堂東西線が計画された際と平成22年(2010年)に消防団車庫建設の際に周囲を発掘調査。その結果、幅約6.5m、深さ約0.8mの周濠が検出され、さらにそこから出土した須恵器片や円筒埴輪などから古墳の築造時期は6世紀前半(古墳時代後期)と推定されています(各古墳の規模や現状については後述)。

地元では、1号墳を「明八塚(めはちづか)」、2号墳を「千代塚」、3号墳を「石塚」、4号墳を「牛上塚」と呼んでいたそうですが、これらの調査が行われるまで古墳であるとはあまり知られていなかったそうです。

当古墳群の被葬者については周辺の有力氏族と考えられているものの不明です。また、同じ富田林市伏見堂には西野々古墳群と同時期のものと考えられる田中古墳群、嶽山古墳群がありますが、この3つの群集墳はそれぞれ異なった集団により別個に形成されたとみられています。


なお、富田林市内には、古墳時代前期に築造され銅鏡など多くの副葬品が発掘された真名井古墳(南旭ヶ丘町)や府史跡に指定されている廿山古墳、中期に造られた彼方丸山古墳、後期に築かれた伏見堂の各古墳群、7世紀(飛鳥時代)のものとされ、国史跡に指定されているお亀石古墳、その他にも廿山北古墳などといった多数の古墳があります。


古墳の現状

現在、西野々古墳群は田畑の中に点在している状態ですが、1~4号墳は立ち入ることは出来ないものの周囲の道路から墳丘の確認が可能で、東西約300m、南北約200mの範囲の平坦な土地にあることから比較的短時間で見学しやすい古墳群といえます。

西野々古墳群(富田林市)
北東から見た1号墳

今回は、西野々古墳群で最も大きく、古墳群の説明板が設置されている1号墳から4号墳まで番号順に見学して行きます。

西野々古墳群(富田林市)
北側から見た1号墳

1号墳は古墳群の北東に位置する円墳で「明八塚(めはちづか)」とも呼ばれています。大きさは直径約46m、高さ約9mであったと推測されていますが、後世の耕作により大きく改変されています。古墳の中に石積みがあったとの言い伝えから、横穴式石室が存在すると考えられます。

前述の調査により周囲に幅約6m、深さ約0.8mの周濠が巡らされていたことが判明。また、濠の中からは古墳に並べられていた埴輪が見つかった他、瓦器(がき)と呼ばれる土器と共に焼土や炭も多く見つかったそうです。

なお、明八塚の由来は正八角形(明八)に墳丘を改変していたことによるとも。

西野々古墳群(富田林市)
北東から見た2号墳

1号墳東側の道路を南に50mほど進むと、右手に2号墳が見えて来ます。

西野々古墳群(富田林市)
南東から見た2号墳

1号墳の南南西にあるのが「千代塚」とも呼ばれる2号墳です。2号墳も円墳で、直径約25m、高さ約4mと推定されていますが、墳丘は残存しているものの、1号墳よりも保存状態は芳しくありません。

2号墳には横穴式石室があった可能性が指摘されていますが、かつて宝物を探して破却された際には何も発見されなかったと伝えられています。

なお、千代塚の名前の由来については不明ですが、「郷土史の研究」などには嶽山山中にある別の古墳に関して千代という美女の伝説が記載されています。


2号墳の東側から250mほど南に進んで右折し、120mほど西の丁字路を右折。さらに道なりに180mほど歩くと、右手に3号墳が見えて来ます。

西野々古墳群(富田林市)
南から見た3号墳

3号墳は道から40mほど北の田畑の中にあります。

3号墳は古墳群の南側中央に位置しています。方墳であったと考えられていますがかなり改変され、ほぼ全壊となっているようで、現在は「L」字、または「く」の字状となった墳丘らしき盛り上がりが確認出来るのみです。残存している墳丘は一辺約28m、高さ約2.5mの規模で「石塚」とも呼ばれていたそうです。

西野々古墳群(富田林市)
南から見た4号墳

3号墳を見た地点から100mほど道なりに歩くと右手に4号墳が見えて来ます。

西野々古墳群(富田林市)
西から見た4号墳(右奥に3号墳)

さらに120mほど歩き道が北向きになった辺りが最も4号墳に近付ける位置のようです。

4号墳は西野々古墳群で最も西側にあり、4号墳の150mほど西は段丘崖となっておりその下に石川が北流しています。こちらも方墳であったと考えらていますが墳丘の大部分は消失し、残存している墳丘は一辺約15m、高さ約4mの規模で、墳丘上に祠があります。なお、4号墳は別名「牛上塚」とも呼ばれていたそうです。


なお、消滅した5号墳は4号墳の近くにあったと伝わっているそうですが詳細は不明です。

西野々古墳群(富田林市)
北から見た1号墳(左)と2号墳(右奥)

結のぞみ病院を左に見ながらそのまま道路を北に200mほど進むと、左手に地蔵堂があり、その先で2車線道路に出ます。ここを右に行くと説明板のある1号墳で、左に行くと石川を渡って国道170号(旧道)や近鉄線方面となります。


西野々古墳群周辺を見ると、他の古墳群以外に1kmほど北東に瀧谷不動明王寺(滝谷不動尊)彼方春日神社がある他、700mほど南西に千代田神社、1kmほど南に腰神神社、1.7kmほど南に金刀比羅神社、800mほど南南東に願昭寺、1.7kmほど南東に竜泉寺といった神社仏閣があります。


アクセス

説明板のある1号墳(明八塚)へのルートはいくつかあります。

公共交通機関利用の場合、近鉄長野線の「滝谷不動」駅、あるいは「汐ノ宮」駅から歩くことになります。直線距離では「汐ノ宮」駅の方が近いですが、徒歩の場合は「滝谷不動」駅から歩く方が若干距離が短いようです。

「滝谷不動」駅改札から南に進み、踏切を渡って100mほど東に進むと国道170号(旧道)の「錦織(高橋)」交差点となります。そこから大阪府道202号森屋狭山線を東に進み石川に架かる高橋を渡り、約90m先の最初の信号を右折します(ここを直進すると瀧谷不動明王寺や滝谷公園、彼方春日神社に向かいます)。あとは道なりに約700m南下すると右手に西野々古墳群が見えて来ます。

「汐ノ宮」駅からは、東側出入口前の国道170号(旧道)の交差点から東に約450m進み(途中、千代田橋で石川を渡ります)突き当りを左折し、600mほど北に進むと左手に2号墳(千代塚)が、さらに150mほど先に1号墳があります。

国道170号(旧道)からは向かう場合は、「汐ノ宮」駅から約850m北の交差点から東に進み、伏見堂大橋を渡ってさらに400mほど進むと右手に説明板と1号墳が見えて来ます。

西野々古墳群には見学用者の駐車場は無いようです。

Nishinono tumulus cluster(Tondabayashi City,Osaka Prefecture)


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