櫟本神社
2020年4月訪問
櫟本神社(いちいもとじんじゃ)は大阪府堺市美原区真福寺にある神社です。平安時代の書物である「延喜式神名帳」にその名が記載されたいわゆる式内社(小社・鍬靫)で河内国丹比郡11座の内の一つです。櫟本神社(堺市美原区) |
古くからの町割りが残る美原区真福寺の住宅地の中にある櫟本神社は、明治時代に少し南にある同じく式内社の丹比神社に合祀されていますが、今でも鳥居などが残され、小祠も建てられています。
歴史と概要
櫟本神社の正確な創建年は不祥です。しかしながら創建の由緒としては、かつてこの地には遠くからでもよく見える櫟(くぬぎ)の大木がありましたが、第15代応神天皇の孫である瑞歯別皇子(多遅比瑞歯別皇子=後の第18代反正天皇)がこの大木を見て「丹比の櫟木」と名付けたことから「櫟本」という社名になったと伝えられています。御祭神については、明治初期の文書では不詳、大正14年(1925年)の「特選神名帳」では空白になっていますが、明治12年(1879年)の「神社明細帳」には瑞歯別皇子とある他、「大阪府史蹟名勝天然記念物」第一冊などには応神天皇が勧請されたとあるようです(かつては八幡神社と称されていたとも)。
堺市美原区真福寺は、江戸時代頃には河内国丹南郡(平安時代後期に丹比郡が丹北郡と丹南郡に分割)真福寺村と呼ばれており、大正時代頃の鎮座地は南河内郡丹南村大字真福寺字垣添となっています。
郷土史によると、真福寺という地名は奈良時代に行基によって開かれた櫟本山真福寺という大きな寺院にちなんで付けられた地名のようですが、この寺院は南北朝時代の明徳2年(南朝の元中8年。1391年)に起きた明徳の乱の兵火により文殊菩薩の画を残して焼失し、現存していません。
明治40年(1907年)11月23日に隣村である丹上の村社、菅原神社とともに丹比神社に合祀されました。
境内
明治の末に櫟本神社は多治井の丹比神社に合祀されましたが、今も旧真福寺集落の中に鳥居やお社があります。鳥居と参道 |
旧多治井集落の中心から500mほど西に丹比神社がありますが、そのさらに西、下黒山集落との間には中高野街道が南北に延びていました。丹比神社から中高野街道を1kmほど北に行くと旧真福寺集落があり、その集落の北西端に櫟本神社は鎮座しています。
本殿から90mほど南に鳥居がありますが、社殿や鳥居は全て南向きとなっています。
鳥居付近の石碑 |
鳥居の右手には明治7年(1874年)7月に建てられた「式内 櫟本神社 眞福寺村」の石碑と、さらに右側に小さな昭和3年(1928年)10月の銘がある「御大典記念事(業)」の石碑があります。かつては「御大典記念事業」の碑が鳥居の左側にあり、その後ろには新池開削碑もあったようです。
北側から見た鳥居 |
石造りの鳥居は車が当たったのか、貫だけ新しくなっているようです。
参道 |
鳥居から本殿までは一直線の参道ですが、普通の生活道路でもあります。
突き当たりにある櫟本神社 |
生活道路兼参道を北に進むと丁字路になっていて、その突き当たりに櫟本神社のお社や2本の木が見えます。
入口の門扉 |
境内はブロック塀で囲まれており南側に入口がありますが、鉄製の門扉が設けられています。ちなみに、350mほど北東にある丹上の氏神である菅原神社もブロック塀と門扉が設けられています。
燈籠と小祠 |
境内は東西約5m、南北7mほどで、境内に入ると正面に1対の燈籠があり、その後ろに流れ造りの本殿があります。
石燈籠と玉垣 |
本殿に向かって左手には、かつて使われていたと思われる玉垣の一部や古そうな石燈籠が残されていました。
石燈籠と旧社地の礎石? |
一方、右手には石燈籠と礎石のような石がありました。
現在真福寺にある櫟本神社は、丹比神社に合祀された後に再建されたもののようですが、地域の鎮守として今も氏子の方々により手入れされているようでした。
なお、当社から600mほど南西には広国(廣國)神社や鍋宮大明神碑が、660mほど北西に丹南天満宮、約700m南の阪和道沿いには黒姫山古墳やみはら歴史博物館があります。
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