広瀬八幡宮
2021年2月訪問
広瀬八幡宮(ひろせはちまんぐう)は大阪府羽曳野市広瀬にある神社です。大阪と奈良を結ぶ南阪奈道路の南側、石川左岸(西岸)の川沿いに広がる広瀬地区の住宅地の西に鎮座する広瀬八幡宮は、旧広瀬村の鎮守としてこの地で祀られてきました。
広瀬八幡宮(羽曳野市) |
広瀬地区は石川を挟んで対岸の壺井(壷井)地区と、広瀬八幡宮は壺井地区に鎮座する壺井八幡宮とそれぞれゆかりがあるようです。
歴史と概要
広瀬八幡宮の正確な創建年は不明です。八幡宮ということで御祭神は品陀別命こと第15代応神天皇ですが、仲哀天皇、神功皇后も合わせたいわゆる八幡三神が祀られています。
境内には「広瀬八幡宮 由緒略記」があり、そこには広瀬地区の歴史も記されています。この由緒略記と大阪府全志などを合わせると、広瀬と広瀬八幡宮の大まかな歴史は以下のようになります。
広瀬はかつて河内国古市郡壺井村(坪井村とも)の一部でした。壺井村は石川右岸(東岸)にある河内源氏ゆかりの村(源氏三代の墓などあり)でしたが、慶長年中(1596年~1615年)に壺井八幡宮の社家、多田家より分家した大黒村(壺井村の北隣の村)の小左衛門の子息清右衛門が石川左岸の川沿いの地(坪井村川西ノ芝場)で新田開発を始めたそうです。開発は大坂夏の陣のあった慶長20年・元和元年(1615年)頃から元和6年(1620年)頃まで続き、元和8年(1622年)に壺井村から分かれて新町村となりました。この新田開発の際、清右衛門は壺井村の八幡神社から八幡神を勧請して新田の守護を祈願しました。
新町村の集落は南北に走る300m少々の直線道路に沿って作られ、東西の範囲は120m前後あったようです。絵図などから、家は道に沿って並び、それぞれの家の背後に短冊状の耕地があったと考えられます。鎮守社である当社はその集落西の外側に鎮座しており、集落と神社の境内は幅約2.7mほどの堀で囲まれていた、つまり広瀬は環濠集落だったようです。当時の境内地は「東西十五間南北二十五間」、つまり東西約27m、南北約45mとあることから、現在の東西約35m、南北約10mより広かったようです。
新町村が広瀬村と改称したのは江戸時代の中頃のようですが、その江戸時代には祭礼が盛んでした。境内には放生池(ほうじょういけ。近隣では誉田八幡宮にもあり)があり、旧暦の8月15日には放生会(ほうじょうえ)が執り行われていた他、御神輿の渡御も行われていたようで、御旅所は現在の児童グランド前辺りに設けられていたと考えられています。
広瀬南方の石川沿いは土師郷と呼ばれ、古市への今井井路、西浦へのカロウス(唐臼)井路という灌漑用水路の取水口があり、周辺では江戸時代以前よりしばしば水論(水争い)が起こったようで、最も激しかった水論は享保16年(1731年)6月に起こり元文4年(1739年)4月に結したそうです。
広瀬神社由緒略記 |
広瀬の八幡神社は明治時代の旧社格制度では村社に列していましたが、河内国石川郡広瀬村は明治22年(1889年)に西浦村、蔵之内村、東阪田村、尺度村と合併して西浦村となり、明治29年(1896年)には所属郡が南河内郡に変更されます。当時の当社鎮座地住所は西浦村大字広瀬字鳩ヶ岡で御祭神は品陀別命のみ表記。
明治40年(1907年)11月16日に石川対岸の駒ヶ谷村大字壺井字別宮にある八幡神社(現在の壺井八幡宮)に合祀されました。また、同時期に西浦村大字広瀬字乾の神明神社(無社格社・御祭神不明)も同社に合祀されています。
太平洋戦争後に、八幡神社を広瀬に復社する動きがあり、再び壺井八幡宮から分祀されて広瀬八幡宮と称し、地域の守護神として神事を行い現在に至っているそうです。
なお、西浦村は昭和31年(1956年)に古市町、高鷲町、埴生村、駒ヶ谷村、丹比村と合併して南大阪町が発足しますが、翌年には旧丹比村の一部(多治井)が美原町(現堺市美原区)に編入され、昭和34年(1959年)、南河内郡南大阪町が市制施行し南大阪市となり、即日改称して羽曳野市が誕生しました。もともと壺井と関係の深かった広瀬地区の中には現在も壺井の飛び地が数ヶ所あります。
広瀬八幡宮の御神徳は厄除け、安産、五穀豊穣、家内安全、無病息災とあります。
当社は神職不在神社です。
境内
広瀬八幡宮は現在も広瀬集落の西側にあり、社殿、参道、鳥居などは東向きとなっています。
東側から見た広瀬八幡宮 |
集落を南北に貫く中央の通りから西に向かうと、正面に境内の高い木々と鳥居、玉垣が見えて来ます。
鳥居の額 |
鳥居には「廣瀬八幡宮」の額が掲げられています。
参道右手の灯篭 |
鳥居をくぐると、参道の左右に4対の石灯篭が並んでいます。手水鉢は右側の灯篭の後ろにあります。
参道左手の灯篭 |
これら4対の灯籠は拝殿前の石段まで続いていますが、元禄6年(1693年)に寄進されたものなど、どれも時代を感じさせる石造物です。
石段と由緒略紀 |
灯篭の先には狛犬があり、短い石段の先に拝殿が見えます。この石段の下右側に由緒略記があります。
灯篭と社殿 |
石段を上ると、さらに石畳の参道が拝殿まで続いており、参道の左側にはベンチが多数置かれています。この石段、石垣の上の一段高くなった拝殿前にも宝暦4年(1754年)の常夜燈があります。
拝殿と左近の桜・右近の橘 |
拝殿の建物内には椅子が並べられており、奥の方に本殿があるようでした。また、拝殿前には左近の桜・右近の橘?が植えられているようです。
藤棚の下のベンチと「社址」碑 |
また、拝殿に向かって左手(南側)のベンチの上には藤棚があります。そのベンチの後ろには大きく「社址」と刻まれた大正4年(1915年)11月に建てられた石碑がありますが、これは明治の末に当社が壺井八幡宮に合祀された後に旧社地に建てられていたものかと思われます。
拝殿前から鳥居を望む |
拝殿前から鳥居の方を振り返ると、参道と鳥居、その先の真っ直ぐな道が見え、広瀬が計画的に造られた集落という雰囲気を感じさせます。
広瀬八幡宮は勧請元の壺井八幡宮に合祀された後、再び広瀬に復した神社ですが、旧社地時代の古い石造物なども多く残されており、今も氏子の人々により大切にされていると感じられました。
当社周辺2km圏内を見ると、約1km東に壺井八幡宮、約1.6km北北東に大祁於賀美神社、約1.8km北北西に高屋神社、約1.3km北西に鹽竈神社・正神神社、約1.9km北西に蔵之内日吉神社、約1.3km西に利雁神社、約1.7km南西に美具久留御魂神社と、式内社を含む神社があります。
アクセス
最もわかりやすいと思われるコースは、南阪奈道路の高架下、石川に架かるはびきの大橋西詰から160mほど西の「大黒」交差点を南に進み、約450m先の突き当りを左折します。さらに道なりに500mほど進み、左手に大神宮灯篭のある交差点の次の交差点を右折すると、約80m先に広瀬八幡宮があります。
広瀬八幡宮に参拝者用の駐車場は無いようです。
広瀬の中心にある大神宮燈篭 |
公共交通機関では、羽曳野市公共施設循環バス(コミュニティバス)の2号車、または3号車に乗車し、「広瀬」バス停で下車するとすぐ南に上記の大神宮灯篭があるので、さらにその先の交差点を右(西)に曲がって少し進むと広瀬八幡宮が見えて来ます。
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